2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(6)

社会主義とは何か


 前回掲載した『自由の新たな空間』(F・ガタリ、T・ネグリ)からの引用文を引き継いで、吉本さんは次のように述べている。

 平和への闘争が現状維持であるというよりも、現状擁護であるにすぎないソフト・スターリン左翼と市民運動の基盤と根拠は、資本主義と社会主義のゆるくあいまいな、狃れあいの同一性である。

 ところでわたしはソフト・スターリン左翼や市民主義者たちと全くちがう。わたしの怠惰はしばしば彼等の外観とちがわないようにみえるかも知れないし、事実違わない。だがわたしが現状維持や現状擁護に廻るときは、高度資本主義下における大衆の現状の維持や擁護との同一化を意味するので、資本主義と社会主義の同一性などを基盤にしているのではない。またわたしが現状を否定するときは同一化された資本主義と社会主義の両方を否定するのだ。ソフト・スターリン左翼や市民主義者のように、高度資本主義だけを否定し、現在の社会主義を肯定するのでは断じてない。

 つまりかれらは「ソフト・スターリン体制の平和」を維持し擁護するにすぎないが、わたしたちは高度資本主義下の一般的な民衆の平和を維持し擁護していることを意味している。なぜならそれが大衆にとって無意識でもあるし、どんなつまらなそうな平和でも社会主義の大衆よりも高い解放的な水準を保っているからだ、といっておこう。

 ガタリらのいうように「平和とは革命の一状態」だとしても、わたしは権力への意志を拒否するから、この場合の革命にはガタリたちのような政治的な意味をつけるよりも、社会体のいたるところを散乱して走る権力線にたいして、不断に異議申立てをすることにおいて永続する革命の意味に解するのだ。



 「同一化された資本主義と社会主義」とはどういうことだろうか。これを問うことは「資本主義と社会主義の両方を否定する」理由を問うことでもある。

 論文「ポーランドの寄与」には「レーニン以後はじめての社会主義構想」という副題がついている。本文中では「わたしの関心の中心は〈連帯〉の要求と動きのなかに、かつて初期レーニンによって固執され、すぐにこの地上から消えてしまった社会主義の理念を、はじめて復元しようとする無意識の欲求がみられた点にあった。」と述べている。「地上から消えてしまった社会主義の理念」こそ、真の社会主義であり、この真の社会主義を体現した共同体などかって一つたりともありはしない。

 私は「社会主義を体現した国家」と書かずに、「社会主義を体現した共同体」と書いた。吉本さんがたびたび言っているように、「社会主義国家」とは大変な形容矛盾なのだ。社会主義は国家が死滅した共同体にしか体現されない。

 では社会主義とは何なのか。

 もともと理念あるいは理想の原型としての社会主義は、単純で明噺な数個の概念で云い尽すことができる。これは実現がどんなに難しいかということとも、実現するには現在の世界の二つの体制はあらぬ方向へ、あまりに踏みこみすぎて、とりかえしがつかなくなっていることとも無関係に提示できるものだ。

 第一に、貨労働が存在しないことである。いいかえるとじぶんたち自身の利益に必要な社会的な控除分をべつにすれば、誰もが過剰な労働をする必要がないことである。
 第二に、労働者、大衆、市民が、じぶんたち相互の直接の合意で、じぶんたちが直接動員できないような軍隊や武装弾圧力をもたないことである。
 第三は、国家は、それがこの世界に存在しているあいだは、労働者、大衆、市民にたいしていつも開かれていることである。やさしくいいかえれば、いつでも労働者、大衆、市民の無記名の直接な投票によってリコールできる装置をもっていることである。

 これだけでも充分だが第一の項目を補なうためにつけ加えれば、

 第四に、私有していればみんなの障害になったり、不利益や不便になったりする生産の手段にかぎっては、社会的な共有にして是正することである。

 この原則に照合すればすぐわかるように、このどれかひとつの項目でも充たしている国家は、現在の世界には存在していない。いいかえれば社会主義はこの地上にはまったく存在していない。存在しそうな気配さえないといってもいい。存在するのはそのときどきに起るさまざまな国内的、国際的、社会的な問題を、最善とみなす知識と経験できり抜けながら、無意識のうちに高度になってゆく国家と、社会主義とは似てもにつかぬ方向に、意図的な官僚専制をまき散らしている国家とだけである。

 いくらか無理はともなうが、現在の世界に存在する国家は、もっと単純にいい当てることができる。国家権力によって完全に管理された生産社会機構をもった後進あるいは中進の資本制国家(いわゆる〈社会主義〉国)と、国家権力によって半分以下の産業が管理された高度な資本制国家(いわゆる資本主義国)とである。これにあてはまりにくい要素をもったアジア、オリエント、第三世界の国家は、大なり小なりこの何れかに方向づけられた生産社会機構をもとうとしている。

 こう単純化すれば資本主義国か〈社会主義〉国かの差異は、国家権力による生産社会機構の管理の度合の差異と、国家権力が世襲された単一政党であるか、いくつかの政党の交替によるかの差異に還元されてしまう。単一政党か複数の政党かというのも、さした差異ではないといえばいえよう。

 こういうと身もふたもない〈空虚〉にさらされる。だが、この単純化が真理である度合が、現在の世界がわたしたちに与えている〈空虚〉の度合だということを誰も疑うことはできない。

 しかし繰り返していえばこれは、社会主義の思想的、理念的運命とは何のかかわりもないことである。現在、生産社会機構の専門家である世界の経済学者は〈マルクス主義〉経済学者も、近代経済学者も〈国家管理社会主義〉のことを社会主義と呼んで分析したり、批判したりしているが、厳密にいえば、それは概念がちがっていて、わたしたちをはじめから納得させない。もともと社会主義は、生産手段の国有化や国家管理とは何のかかわりもないものである。

 現在の世界で、社会主義の理念と現実にとって、なにがいちばん緊急で大切な課題かと問うたとしよう。どんな反対に出あっても、わたしだったら国家を〈開くこと〉だと答える。国家が〈開かれる〉装置がない〈社会主義〉は、社会ファシズムあるいは国家全面管理の資本主義以外のものに収斂しない。また国家が〈開かれる〉装置をかんがえない資本主義は、永続的なスタグフレーションか、国家社会主義かへ収斂するほかないとおもえる。



 いまどの資本主義国家も〈社会主義〉国家も、20数年前に吉本さんが洞察していたとおり、あらぬ方向へとさらなる迷走を続けている。

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