2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(5)

平和とは革命の一状態なり


 「同一化された資本主義と社会主義の両方を否定する」というのが、政治・社会問題に対する吉本さんの基本的なスタンスである。

 吉本さんが次いで『自由の新たな空間』(F・ガタリ、T・ネグリ 丹生谷貴志訳)から引用している次の言説は、同じスタンスから発せられている。「ガタリたちは、わたしたちが洞察していることを洞察している唯一の理念であり、親しみも覚える。・・・かれらは胸のすくようなアジテーションができる現在稀な存在だ。かれらは第三の権力が欲しいし、そうたたかいたいといっている」と、エールを送っているのもむべなるかな、と言うべきだろう。

 平和主義の帽子の下にはごろつき連中もいるが正直な者もいるなどと信ずるほどわれわれはナイーヴではないという点については賛成してもらえるはずだ! 幾つかの国々において平和闘争は道具化され〝スターリンの平和″の卑劣な時代をわれわれに思い出させるかたちにまで堕落しているのである。

 われわれは社会の中性化に基づく〝平和″を嫌悪する。それは例えばポーランド人民の決定的な抑圧に何の傷みも覚えぬ類の連中の〝平和″なのだ。われわれは、それに対して、平和への闘争をあらゆる解放闘争がそこで編まれてゆく緯糸のようなものとして理解している。つまり、われわれにとって平和への闘争は現状維持の同義語などではないということだ。死を基底に多元的に決定されている資本主義そして/あるいは社会主義的体制下の生産関係に関わるわれわれの仮説を再びここで強調しておく必要があるわけだ。平和への闘争とはデモクラシーのための闘争であり、すなわち、そこでは個人の自由が保障され、 国権による管理と経済的進歩の合目的性が共同体の中にのみその正当性を見出すはずのデモクラシーのために闘われる闘争なのだ。平和の緑は社会主義体制の赤からも資本主義体制の黒からも生まれ出はしない!

 それは貧困と抑圧が蔓延するあらゆる場所での拒否の中から生まれ、資本主義的支配による苦痛が刻まれるあらゆる場所での解放の緊急性の中から生まれるのだ。

 いたるところでわれわれが聞かされる詰問はこんな具合だ、「どちらにしろあんたがたはどちらかの収容所を選ばなくてはならないわけだ。」何人かの連中がアフガニスタン人に言う、ロシアがアフガンから出ていったとしてもその代わりにアメリカが征服しにやってくる、と。しかしだから何だというのか? 「もしアメリカがわれわれを征服しにやってきたら、とアフガニスタン人たちは件の言葉に答える、そうしたらわれわれはみなスキタイ人になるさ。」他の連中がわれわれに言う、もしアメリカの傘を拒否すればわれわれはロシアに征服されることになろう、と。しかしだから何だというのか? もしロシアがわれわれを征服しにきたら、われわれはみなポーランド人になればいい。

 われわれはこうした類のあらゆる威しにうんざりしている。われわれは核爆弾の威しも資本主義あるいは社会主義の威しもともに拒否する。平和とは革命の一状態である。



 引用文中に「ポーランド人民の決定的な抑圧に何の傷みも覚えぬ類の連中」とあるが、これは言うまでもなく1980年~1981年のポーランドにおける自主管理労働組合「連帯」の闘いに敵対的あるいは無理解であった者たちのうち、とりわけ進歩派・革新派・反体制派を自認していた者たちを指している。

 ここでまた思い出したことがある。『「反核」異論』に「ポーランドの寄与 ― レーニン以後はじめての社会主義構想」という論文が収録されている。また全く予定していなかった横道に出会ってしまった。これを教科書に加えて、しばらく横道に入ることにする。まず、ポーランド「連帯」の闘いの簡単な経緯を記録しておこう。

 当時ポーランドは、世界第10位の高度成長のかげで、不況、物価高、食塩不足と積重ねられた無能な国家官僚の失政にたいし、堪忍袋の緒をきって労働者と知識人たちが抵抗しはじめた。  1980年7月1日の食肉価格40~60%引上げに対して賃上げ要求ストがワルシャワやルブリンなどから全国に広がり,8月14日にはグダニスクの「レーニン造船所」もストに加わった。要求は賃上げから労働組合運動の自由,スト権,言論出版の自由など体制改革要求に広がった。政労交渉の結果,8月30・31日に政府代表と統一ストライキ委員会代表が合意書に調印し,自主管理労組設立やスト権,賃上げなどが認めれられた。9月22日には自主管理労組「連帯」が結成された。自主管理とは、共産党=政府の支配を受けないという意味である。これは、ソ連型共産主義の根本原理の否定であった。このときの「連帯」委員長であったレフ・ワレサは後にポーランドの大統領(1990-95)に選ばれている。

 労働者の大半が年末までに「連帯」に加盟、その網の目はさらに大学教授、教師、芸術家、医師、ジャーナリスト、職人、農民、学生にまで拡大していった。1981年9月には1千万人に及ぶ組合員が「連帯」に加わり、ポーランド社会全体が党支配の及ばない構造に組織され、その勢いを前に政権はたじたじとなった。

 知識人の「連帯」支援組織である「労働者擁護委員会」もこの年にこの運動から生まれた(翌年社会自衛委員会と改称)。

 1981年12月
 11日から開かれていた「連帯」の全国委員会で、国家機関、党、軍を掌握したヤルゼルスキイ政権の信任投票を要求する決議が採択された。ヤルゼルスキイ政権は、統一労働者党(ポーランド共産党)官僚のいわば最終的な切り札であった。

 その決議は次の三項目の是非を問う国民投票の実施であった。


 現在のヤルゼルスキイ第一書記を代表とする統一労働者党政権の信任の有無

 自由選挙の実施

 ソ連の権益保護を継続するかどうか

 この決議による国民投票が行われて、もしも統一労働者党政権が不信任になったばあい、かりにソ連軍が介入しなければ、「連帯」が不用意なままながら国家を担当することを意味した。

 現存する国家権力の崩壊の瀬戸際にたったヤルゼルスキイ政権は、13日に「国家非常事態」を宣言して「救国軍事評議会」を設置し、軍事独裁体制をととのえると〈連帯〉の弾圧に乗りだした。

 今利用している吉本さんやガタリ、ネグリの文章はこの時点(1982年頃)で書かれている。吉本さんは、このポーランドの抵抗権行使行動と日本の抵抗行動とを対比しながら、次のように思いを述べている。

 わたしたちの潜在する鬱屈が、ポーランドの労働者、知識人、市民たちの言動に共感を覚えたのもまた確かである。かつて60年安保闘争で、学生、知識人、労働者の抵抗が拡大してゆけば、機動隊の背後に武装した自衛隊が、その彼方には米駐留軍の影が想定されたように、ポーランドの労働者と知識人たちの〈連帯〉運動は、そのうしろに警察、軍隊、ソ連軍の介入が想定されるものであった。

 レーニソ以後はじめての労働者、市民、大衆による本格的な社会主義の構想は、官僚専制権力の武装力のまえに挫礁を余儀なくされた。だが史上いちばん遠くまでいったかれらの構想はわたしたちの心臓にしっかりと刻みこまれる。

 わたしたちはまた推測する。かれら〈連帯〉の労働者と知識人たちは、これから分裂、相互不信、反目、失意、孤立、疲労のうちに、ただ敗北のための戦い、静かな真昼のながい戦いにはいるのだろう。

 かれらは専制国家の権力である統一労働者党官僚と、かれらに同伴する知識人たちから、反社会主義、反革命、はね上り、といった聞いたふうのレッテルをはられながら挫礁し、孤立し、後退し、あるいは妥協し、あるいは市民社会のなかに復員してゆくだろう。もしかすると内ゲバ集団として孤立し、自滅してゆく者たちも、地下に潜行する者たちもあるかもしれない。だがポーランド〈連帯〉が成し遂げたことと、成しえなかったことは、しっかりとわたくしたちのなかに刻みこまれてゆくだろう。



その後、ポーランドはどうなったか。

 「連帯」は地下に潜行し、苦しい抵抗闘争を継続していく。結局、軍事政権は「連帯」運動の解体に成功せず、「連帯」の地下での抵抗闘争が、かえって軍事政権を孤立に追い込んだ。

 1988年の春から夏、ふたたび値上げ抗議の大規模なストライキ闘争が展開されると、ヤルゼルスキ政権は無力をさらけた。「連帯」は復権を獲得、翌年(1989年)春の円卓会議において、軍事政権と「連帯」との間で「自由選挙」が合意された。選挙では「連帯」勢力が圧勝し、ここにポーランドの共産党政権は最終的に崩壊した。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1240-88caf08b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック