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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(4)

先進国と第三、第四国間の問題


 吉本さんは「レーニン主義的マルクス主義が振りまいた途方もない嘘」をもう一つ取り上げている。

「高度先進工業諸国における労働者の貧困からの解放の成就、労働者階級の市民社会内部への融解状況は、周縁の低工業化諸国の支配の強化、自由の低下、治安・平和の不安定、第三、第四世界の被搾取者の餓死状態などの上に築かれている。」

 このような言説はいまでもよく聞かされる。吉本さんが『権力について』を執筆した当時はガタリや浅田彰がそのような言説をふりまいていた代表選手だったようだ。吉本さんは「ガタリや浅田彰などの連中にいたるまで(もっともガタリと浅田ではまるでちがうが)無邪気に踏襲している」と、次のように批判している。

 両者にはもともと何の関係もありはしない。あったとしでもせいぜい二種の壁(ベルリンの壁のような)を介したうえでの間接的な関係でしかない。

 高度先進工業諸国であろうが、第三、第四世界諸国であろうが、それが社会主義国であつても資本主義国であつても、産業諸種の運行、工業労働の現場、それに従事する大衆の生活自由度、これらを限定し、租税域に区切り、労働、保健、分配の諸法規を支配し、管理しているのは「国家」や「国境」や「国益」である。高度先進工業諸国の、すでに貧困から離脱した労働者と、第三世界、第四世界諸国の餓死状態の被搾取大衆とを関連づけるためには、第三世界、第四世界諸国の資本主義または社会主義「国家」権力の壁と、高度先進工業国の資本主義または社会主義「国家」権力の壁の二つを、通過しなければならない。ガタリらや浅田彰みたいな連中は、とぼけているのか、またはまだレーニン・スターリン主義を解毒していない構革派にすぎないかどちらかなのだ。つまりこれらはガタリらの理念や哲学のせいではなく、無意識が欲望している党派の問題だ。ガタリや浅田のような連中は、ここが駄目だというほかいいようがない。

 先進諸国における労働の自由化は「諸共同体、人種、小社会集団等、あらゆる類の少数者の存在」「自律的表現の領域」を引き替えに「訴追」しはしない。まして〈資本〉がその引き替えの場面を関連づけて必然化しているものでもない。それは依然として資本主義および社会主義の「国家」権力、「国境」擁護勢力の問題なのだ。

 わたしたちの管見に入ってくる新聞雑誌の情報によるかぎりでいえば、第三・第四世界の解放闘争の仕方にわたしは殆んど全部否定的だ。わたしたちの社会体とそれらの地域との「距離」は、たたかいの未整備などに由来しない。現在の植民地主義に対する解放闘争、低開発状態からの解放闘争の仕方を否定できなかったならば、スターリン主義とファシズムのふたつの体制の、半世紀にわたる正義派ぶった残虐の歴史を否定しないこととおなじなのだ。



 次に、F・ガタリ、T・ネグリの次の文章を引用している。

「資本主義者そして/あるいは社会主義者たちの核装備カリブ海賊同士の水中果たし合いに備えよう! しかし、世界にたいする、C・M・I(世界化された資本主義のこと ―註)の果てし無い戦争が展開しているのは露骨に武装された地上や海、空でだけではない。それはまた、市民生活の領域で、社会の、経済の、産業の、……あらゆる領域で 展開しているのだ……。そしてさらにもっとだ、そこには、横断的に、クモの巣状に果てし無く分化したシステムの網目に沿って、大多数のものには触知できぬかたちでの権力のオペレーターが走っている。 ― 少なくとも伝統的な意味での ― 政治的あるいは労働者組合的達成の外をあるいはその中心部を様々に絡み合いごた混ぜになりながら、多国籍企業が、マフィアたちが、戦争産業複合体が、シークレット・サーヴィスどもが、さらには〝法王庁の抜け穴″までが貫いている……。あらゆる地平で、あらゆる階梯で、あらゆるやり方で - 投機、略奪、煽動、転覆、恐喝、膨大な強別収容、虐殺……。この瘴気を帯びたデカダンスのなかで、資本主義的生産の様態は往年の凶暴さを無傷のままにそっくり取り戻したかのようなのだ。」(F・ガタリ、T・ネダリ『自由の新たな空間』丹生谷貴志訳)

 これに対して吉本さんは「ガタリたちは、わたしたちが洞察していることを洞察している唯一の理念であり、親しみも覚える。・・・かれらは胸のすくようなアジテーションができる現在稀な存在だ。かれらは第三の権力が欲しいし、そうたたかいたいといっている。」と評価している。ただし、「かれらの考え方は、半分だけしかわたしたちの音叉に共鳴しない。無駄な力こぶが共鳴をさまたげている」と言い、次のように批判している。

 「多国籍企業が、マフィアたちが、戦争産業複合体が、シークレット・サーヴィスどもが、さらには〝法王庁の抜け穴″までが貫いている……。」こういう悪玉の並べ方が何はともあれ気に喰わぬ。

 「投機、略奪、煽動、転覆、恐喝、膨大な強制収容、虐殺……。」こういう悪行の挙げ方も気に入らないというべきだ。

 多国籍企業は民族あるいは国家企業に比べれば開かれた善だし、資本主義的投機と社会主義的強制収容、虐殺とはまったく質がちがう。個人の思想などが手をつけられそうもない壁、機構が、既にそこに制度やシステムが存在する限り存在してしまう、その圧倒的な重圧感と、資本制そのものに本質的に附随する投機制の問題とはまったくちがうことだ。

 また謀略部隊のゴロツキまがいの陰謀と、ソ連その他の社会主義機構に本質的につきまとう強制収容や虐殺の問題とはまったく別だ。ガタリらはスターリン主義の半世紀の歴史をひっそりと仕舞い込もうとしているために、差異こそが重要だということを水と一緒に流してしまう。

 わたしたちならば、資本主義と社会主義の国家権力どうしの謀略まがいの戦術などが、まるで無関係にしかみえない一般的な大衆の原像にすべてを置きなおし、何がどこを権力線としてかすめていったか、どうやって横にそれを超えるかを見つけようとするだろう。何をうろたえることがあろうか。先験的な理念と宗派、その対立、争闘などに、現在という巨人は何の意味づけも与えはしない。

 アメリカに主導された資本主義諸国家とソ連に主導された社会主義諸国家との東西の対立や争闘や共犯の世界史的な関係の底には、無意識の憩いの母胎もあるし、またその奥の層には輝く緑の死も存在する。この世界に誇張した色を塗ったり、歪んだ瞬間を映写すれば、おどろおどろしい像(イメージ)ができあがるだろう。だがそんなところから始まる政治的な地勢図などが、いまでも通用するなどと思っている言説をみると、いい加減にしてもらいたいといいたくなる。

 権力が強制から協調にわたる「厚さ」をもっているように、反権力も無意識の憩いの母胎をもっていれば、その奥の入眠もあるし、逆に現在の資本主義と社会主義にたいする徹底的な否認からくる孤独な、たった一人の反乱ももっている。それが現在の世界の体制がこしらえている亀裂や空隙がわたしたちに与えている「厚さ」なのだ。



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