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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
反権力の現在(2)

「善」の面をかぶった権力


 国家権力の問題(いいかえれば階級社会の問題)は、先進資本主義社会では、もはや最重要ではなくなったのか?

 吉本さんは答えを二つ提出している。


 「そうだ」、国家権力の問題(いいかえれば階級社会の問題)は、先進資本主義諸社会のあいだでは、つぎつぎに第一義的意味を失いつつある。

 先進資本主義の諸社会では、やっと権力の表出力が衣裳をはいでむき出しに本質をさらすようになった。つまり、社会体のなかの個々人は、じぶんたちの皮膚にひしひしと権力の抑圧力と管理力を感ずるまでに切迫してきている。

 ②について以下のように詳論している。
 その理由はいままで述べてきた。権力のベクトルが国家という第一義的な幻想(体)の噴出エネルギー源を失って、社会体の内部の現実的な諸差異を表出源とせざるを得なくなったのだ。そこでは権力のヴェクトルは散乱し、分断された徴局所の総和をいちばん重要とするしかなくなった。そのかわりにリアルにむき出しに諸個人の皮膚感覚に感知されるまでになった。



 その証左として、次のような例を挙げている。

 悪の象徴のようにみなされるものとして
・国家の社会管埋力
・会社や工場の現場、学校制度の登り難さ
・病気管理力としての病院の息苦しさと過密度 ・医薬物の作用、副作用の体系 ・

 善の象徴とみられるものも、おおきな抑圧力となっている。例えば
・緑の政党
・自然を守る会
・反核と反原発
・嫌煙権運動、節煙、禁煙勢力の出現

 以前は、つまりまだ国家権力が第一義の意味をもち、市民社会が労働者階級を社会の下層から外にはじき出していたときは、こんな細かな項目などに権力(と反権力)は目もくれず、ある意味でおおらかで間接的だった。

 緑の好きな連中は、じぶんが田園や農村や海辺に移り住むか、住居を緑でできるかぎり取囲んで住まい、緑が嫌いな連中の住み方や遣り方をほっとくか、眼をつむるが、無関心ですましていた。だがいまでは政党として自己主張し、たたかいを仕掛ける。つまり善や正義の権力として緑を共有する党派を作るようになっている。

 以前は煙草を吸わぬ人、煙草の烟りや匂いの嫌いな人は、黙って窓を開けたり、室外へ出たり、我慢して付き合っていたものだ。いまでは団結し、嫌煙の権利を主張し、煙草を吸う者たちを部屋の外へ追い出しはじめた。いまに社会体の局所を禁止地域として法的に設定するようになるかも知れない。



 「反核と反原発」については、かなり長い論評を加えている。1981年から1982年にかけて反核運動が起こり、いわゆる進歩的知識人の圧倒的多数が賛同を表明し、マスコミも巻き込んで全国的に過熱していったが、例のごとく、あれは一体何だったの? とあきれるほどあっけなく冷えていった。この反核運動が盛んに盛り上がっていたとき、ひとり敢然と異を唱えたのが吉本さんだった。そのとき『「反核」異論』という著書を出している。ここでの論評はその著書の論旨の要約とも言える。

 反核と反原発は、いまでは資本主義は悪だが社会主義は善だとおもい込んでいる信仰者に主導された第一宗教にまで成りつつある。だが核戦争が嫌で反対なのはすべての人間であり、この連中の教義だけに独占権があるわけではない。そして現実に核爆弾を蓄積し、危険を積み上げているのは資本主義の諸国の主導権力であるアメリカと、社会主義諸国の主導権力であるソ連であることは、どんな立場のどんな人物の眼からも明瞭なことだ。

 だがこの連中はただの一度も米ソ核戦争体制反対と声をあげたことのない反核なのだ。もつとひどいことに核兵器をもっているのも、原子力発電所をもっているのも、資本主義国だけだと言わんばかりの反核運動をやってきたおなじ連中が、ソ連原発事故にたいして、一言の分析も自己批判もなしに、原子力発電の危険一般の問題に擦りかえて、原子力発電所をとり壊せなどという迷蒙な反動的な主張を、労働者の組合総組織の頓馬な指導者と口裏を合わせてやっている。

 だが原子力発電一般への異議申立は、現在の科学技術の水準で最大限可能なかぎりの、防御装置を多重に設備せよ、という主題以外には成立しない。それ以外の主題は人間の科学理性とエネルギー必然にたいする反動でしかない。

 このようにして善の象徴のようにみなされている権力もまた、ほんとは悪の象徴にしかすぎない。そしてわたしたちにのこされている権力の問題は、依然として何ひとつ改善されずにもとのままなのだ。ただ権力の諸問題がより本質的に、より膚身に迫る切迫感でむき出しになりつつあるということだけが、これらの諸象徴の取得になっている。



 国家権力による圧迫感以上に、上記のようなさまざまな散乱する小さな「権力」こそが、現在の閉塞感を形成している。

 国家権力と市民社会との対立がいちばん重要だった資本主義の興隆期には、小さな権力が集まって大きな権力へ、また大きな国家の権力が分枝してたくさんのおなじベクトルの小さな権力として局所に作用するというのが、権力の基本的な表出形式であった。

 だが現在の高度資本主義諸国では、小さな、一見すると何でもないような表出形式をもった権力問題ほど、より本質的な、より究極に近い権力の表出形式であるという逆説的な図式が成立している。そしてこの図式のなかでもう一度M・フーコーの発言の意味は蘇えってくるといえよう。

 わたしとあなたのあいだにあって、いずれか一方が権力の雰囲気をもつかに見えるとすれば、容貌のせいなのか、それとも服装のせいなのか、社会的な地位のせいなのか? それともわたしかあなたが、自分自身にたいして過剰なイメージをひそかにもっていることから発信されるのか? わたしや あなたは自己の心身の出来方たとえば虚弱、病気、心身の障害や欠損が与える、またそれから与えられる権力の雰囲気に、どこで責任をもつべきなのか、あるいはもつべきでないのか?

 こういった一見するとつまらない疑問を、わたしたちに喚起するのは、永続的な権力、どこかに発信源をもつ手ごわい権力であるような気がする。権力の由緒を追い求め、ついに権力がそう見える外観を突破して、その内在にまで踏みこんでゆくと、踏みこんだ途端から、権力は異った貌にみえてくる。それはある限度をこえたとき、その概念自体が発するものが不可避の力価に見えてしまうあるひとつの象徴なのだ。

 ここまでくれば権力はわたしとあなたのあいだ、あるいは人間と人間とのあいだの関係の絶対性のようにもおもわれてくる。無数のわたしと無数のあなたとの関係が、不平等と千の差異から出発するのは不等だし、それを到達点とするのも不等だ。だが権力とは自然力のようにさし迫ってくるものを、究極的には指しているのではないか。だから権力は皮膚に触れ、皮膚を圧してくる物質のなかに滲透して、物理的な力を加えてくるものであるかのように比喩される像(イメ―ジ)なのだ。



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