2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

「最良からしみでた最悪」


 辺見庸さんの『水の透視画法』(3月5日付「東京新聞 夕刊」に掲載)がすばらしい。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思った。

 「最良」とは民主主義というシステムのこと。ただし辺見さんは「民主主義がわれわれの最良の選択であるなら、そして、これがいうところの真の民主主義であるならば、」と留保している。ブルジョア民主主義が「真の民主主義」であろうはずがない。( 「民主主義とは何か」 を参照してください。)

 「最悪」とはいわずとしれたオバカ総理のことだ。この脳天気男の人となりを余すところなく描ききっている。

 「最良」からにじみでる「最悪」が脳天気男に代わってファシストになる可能性も無しとしない。そして、脳天気男の不支持率がファシストの熱狂的支持率に変わる可能性も。辺見さんは「権力(ないし戦争)は、絶えず離合集散をくりかえすわれわれの無数の合意、無数の無関心、無数の断念、無数の倦怠(けんたい)、無数のシニシズム、無数の沈黙をいちばんの養分にして、ある日むくりと巨体をたちあげてくるのである。」と警鐘を鳴らしている。

 以下、全文を転載する。

『水の透視画法』

最良からしみでた最悪
  かれと私の荒んだ関係


 かれは人前に姿をあらわすと、きまっておかしな動作をする。右手指を、蜜柑(みかん)でもつかむぐあいに宙であいまいにまるめ、それをつかの間、自身の額かこめかみのあたりにもっていき、小首をほんのかすかに振るのである。軍隊の敬礼をまねているのかもしれない。しかし、手指をああまで屈曲させては、しもじもを脾睨(へいげい)する大元帥を気どっているつもりでも、なにかサルが自分の頭を掻(か)いているみたいで、滑稽(こっけい)というか奇矯の感なしとしない。

 かにかくに、おかしな人である。私はべっして関心はない。だが、みるともなくみていると、そこはかとない嫌悪というか、こちらの羞恥心(しゅうちしん)まで誘(そび)きだされてしまうのはなぜであろうか。

 よく笑う。なにが楽しいのか、真白い歯をみせて、かれはじつによく笑う。笑いながら、首をちょいと心もち横にかしげて、下手な子役か女形みたいに、さも恥ずかしそうにしてみせたりもする。あれはしかし心底恥ずかしいのでも照れているのでもなく、人目やカメラを多分に意識した、お得意の気障(きざ)な所作なのであろう。よわい七十に近いのに、ときにお稚児のような表情をしたりして、さても面妖である。さだめし普段から姿見の前に長いことたって自分にみほれたり、あれこれポーズをとったりしているのだろう。りゅうとしたスーツのズボンの裾(すそ)には、ちょっとした重しがしのばせてあるといううわさもある。しわになりにくくするためだそうだ。

 ばかばかしい。どうでもよいことだ。テレビを消せばすむことである。自己愛過剰のあの男が、よしんば今後他の者にかわったとしても、すっかりうじゃけてしまった世の中の芯がそっくりよくなるというものでもない。かりに、漢字が読め、清廉・謙虚・篤実をてらい、いかにも安い背広を着て、貧者の苦労によりそうふりをする寝業師があらわれ、改憲、核武装計画の底意をひたかくしにしたまま、国難克服、経済回復、〝日本力″再興…とかなんとかのスローガンをさけんで、不人気のかれの後を襲ったとしよう。そして一転、九〇パーセントもの熱狂的支持をえたとしよう。かえってなんだか怖くはないか。まったくありえないことではない。マスコミと民衆の見識と前歴からして、いまふたたびの〝狂躁(きょうそう)″はむしろありうべしである。

 民主主義がわれわれの最良の選択であるなら、そして、これがいうところの真の民主主義であるならば、この国では目下、〈最良のシステム〉をつうじて〈最悪のもの〉がさかんにしみだしているのにほかならない。おんば日傘でそだてられ、漢字にせよ人の世のことわりにせよ、初歩的まちがいをそれとして叱責(しつせき)もされずに生きてきたであろう、いわば「勘ちがい男」のかれをいまだにトップにいただくこの国は、ジャン・ボードリヤールふうにさらに悲観的にいうなら、すでに「幻滅と解体の永久運動にとりこま れている」(『完全犯罪』)のかもしれない。ボードリヤールによると、この種の運動は、おそらくあきらめの蔓延(まんえん)から、状況を「秩序とばかげた順応主義」に追いやりがちだが、それはかえって「もっと大きい壊滅状態」をつくりだすだろうという。同感である。

 先日、ふとおもった。派手なマフラーを巻き、珍妙な敬礼をし、だみ声で空疎なことをしゃべくるかれは、どことなく昔のバナナのたたき売りに似ている、と。いや、バナナのたたき売りや香具(やし)師ならばそれはそれ労働だし、まだ技というものがある。権力の座にただとどまりたいだけの目的で、三百代言をかさねてお金をばらまこうというかれとその仲間たちの行為は、納税者への愚弄(ぐろう)をとおりこし詐欺的ですらある。不支持率の高まりは消極的ながらせめてもの救いといえなくもない…と、この話を軽いエッセーの手法でまとめることに、しかし、私のなかにはためらうものがある。

 きょうびの権力とは、おそらく可視的な単体ではありえない。つまり、英雄気どりの勘ちがい男は、日本の腐敗した権力をかりそめに表象しているかもしれないが、いかに豪華なコートを着用していようと、権力そのもの、あるいはその全体や本質ではありえない。権力(ないし戦争)は、絶えず離合集散をくりかえすわれわれの無数の合意、無数の無関心、無数の断念、無数の倦怠(けんたい)、無数のシニシズム、無数の沈黙をいちばんの養分にして、ある日むくりと巨体をたちあげてくるのである。

 テレビを消せば、かれと私の関係は切れる。だが、私のあきらめは、権力の腐乱と増殖をしずかにささえ、ひるがえって、私自身を刻々荒(すさ)ませるのである。



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