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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(114)

抵抗権行使運動の未来(4)


 この国が近代国家の装いを整い始めたときから今日まで、自由民権運動を皮切りに数々の抵抗権行使運動が闘われてきた。それぞれの闘いにはそれぞれの時代の政治状況や社会状況に応じた個別的な課題があったが、その共通の目標は「不当な支配や抑圧からの人間解放」と総括できよう。それは、今まで使ってきたキーワードで言えば、「国家を開く」ということと同義である。

 三上さんが自らが深く関わった沖縄闘争を経験的に振り返ることですすめてきた議論の論旨は、「国家や権力を開くというとき、その対象が重層的であれば、こちらの戦略も重層的でなければならない」ということであった。そして「この方法は包括的な政治戦略を可能にするはずである。」と言う。三上さんはこの観点から沖縄問題の捉え直しを試みている。
 それならば、僕らはアメリカ軍政からの沖縄の解放問題をどう扱えばよかったのか。これは戦争における沖縄の問題と関係するが、基本的には国家権力と地域住民の政治的関係の歴史性の問題である。沖縄の住民は日本の近代国家の下で政治的に不当な扱いを受けてきた。琉球処分というのはこういうことである。

 沖縄復帰をめぐる過程で住民の意志が無視されたことへの怒りは復帰協定への批判となったが、協定の内容、協定の仕方を含めた沖縄住民の反発は国家権力の沖縄処理への異議申し立てであった。この底に日本国家(政治的国家)の在り方への異議申し立てが強く流れていた。これは政治的国家のねじれを象徴的に現すものであった。

 地域住民と政治国家の問題は現在的には地方分権の問題としてあるが、沖縄はその象徴的位置を占めている。沖縄は日米安保、つまり安全保障問題が国家権力と地域住民の問題として集中的に出ている。現在的にいえば有事法制の課題である。第二次世界大戦の中で、軍隊と住民の関係を最も鋭く経験した沖縄は、官僚的な軍隊と名目的な国民の軍隊との矛盾をかいまみた。自衛隊と国民との関係の未来を歴史的に経験したといえるのである。

 北朝鮮への不信や不安は閉じられた官僚制からくる。何をやるかわからないという不安は民主制や自由の欠如からくる、アジア的官僚制は国家が閉じていく傾向をもつが、この不安と沖縄住民の歴史的経験は通底している。

 僕らが直接民主主義という言葉で変えようとしてきたのは、政治国家の構造や構成である。民主制といわれる政治国家の在り方がねじれている問題である。この領域の闘いが沖縄闘争に収斂されて行ったことは象徴的なのであるが、それは官僚制との闘争を沖縄住民は最も深く経験してきたからである。



 「国家を開く」という課題は、現時点では「官僚制との闘争」、言い替えれば「官僚制を開く」という課題に集約されると言う。この問題は、最近の闘いでは、アメリカ軍の再配置問題の一環である普天間基地の辺野古への移設問題や岩国の基地拡張問題に表徴的に現れている。政府は相変わらず地域住民をないがしろにして、見せ金と恫喝という官僚的な手法で解決を図ろうとしている。

 戦前の日本では統治形態は天皇専制であり、天皇の官僚が統治の実際を担当した。議会は天皇の補助機構であった。戦後に民主制国家になっても、立憲政党や政治家は立法能力をかって天皇の下にあった官僚に依存してきた。立法能力に長けていた田中角栄があれほど評価されたことは逆にいえば、日本の政党や政治家のその領域での貧しさを現している。

 官僚ではなく、それに対抗して制度的言葉を作れる専門家が必要である。これはフーコーのいう専門領域の知識人、特殊領域の知識人のことになるのだろうか。かって、全共闘運動はこの日本の官僚制を対象とする闘争を展開したといってよいのだが、生活や日常から表出される政治意識(構成する力)を制度的な言葉の構成に転化するためには、特殊な領域の知識人の存在が必要なのだ。ここには国家を開いていくために、専制下で機能してきた官僚制との闘いが不可避である。

 ごく最近の個人情報保護法案、有事法制案など重要な法案が次々に法制化された。これらに対する反対の動きを見ていて、制度的な言葉で対抗する力の不在を実感した。

 日本の官僚制はアジア的官僚制とよんでもいいのだが、専制下で統治の実際を握ってきた。また、官僚は制度的言葉の独占者であった。日本で、制度的言葉と日常的な言葉が現在のような断層や乖離を抱え込んできたのは、制度的言葉が官僚に独占され、知識人はそれに随伴する存在だったことに起因する。制度的な言葉の官僚の独占を突き崩し、国家や権力を開いていくには、自由や抵抗を言葉にする存在を必要とする。

 民主制の機能を官僚の支配力によるねじれから解放していくには、政治家を変える道が一つある。官僚は現在では天皇ではなく、議会や内閣に根拠がある。政治家を変えることはその一つであるがそれだけではどうしようもない。官僚に対抗できる知識人や集団などが、自立した存在としてなければならない。

 僕らが日本の中で抱えていることは中国や韓国なども抱えている課題であり、そう遠くない日にアジア的な官僚制との闘いが共通の課題として浮上することになるのではないか。官僚制と闘うためには、初めの方で述べたように運動が必要である。政治的な表出意識を発現するという運動や抵抗が、制度的言葉を独占する官僚と闘うには不可欠だ。しかし、同時に制度的言葉を生み出す部分を作り出すしかない。立法化する力、それを生み出す力を市民社会の中で用意する基盤は情報の高度化で強くなる。過大評価はしていないが、そこが一つの可能性を用意しているように見える。



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