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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(111)

抵抗権行使運動の未来(1)


(「『独立左翼論』を読む」の続きですが、表題を別立てにしました。)

 赤軍派の武装闘争の破綻や叛旗派における内部矛盾の逢着の根源は、独立左翼的な思想の徹底化ができず新左翼的な思想に侵食されたという点に求められよう。

 ここで「新左翼的」という概念は、60年安保闘争のときに敢然として現れた旧左翼思想(マルクス主義)や前衛党を否定する左翼反対派的な動きを指しているが、三上さんは「マルクス主義の枠を守りながらそのルネサンスをめざすものも」ここに含めている。

 独立左翼的な要素と新左翼的要素はブントそのものが内包していた矛盾であったし、後にもそれは大きな矛盾として発現した。僕は新左翼的なものから分離した形で独立左翼的なものを思想的に析出しようとしてきた。安保闘争やブントの存在に戻りつつその作業を行なってきたが、そこにはさまざまの困難が存在した。その中心問題は国家、あるいは国家権力についての考えであった。

 その作業は時代の行動的ラディカリズムを暴力革命の概念と分離して思想的に析出できるかどうかというところに行き着いた。国家も国家権力も過渡的な存在だが、それとどう関係すればいいのかというとき、この間題は現在の問題に連なる。テロリズムである。現在のテロリズムを否定する道は、暴力革命の概念の、その根底をなす権力概念の否定としてのみ可能である。



 「暴力革命の概念」と「その根底をなす権力概念」は、言うまでもなく、レーニンの国家論や権力論に依拠して構成されてきた。それはプロレタリア独裁論であり、暴力革命論であった。このプロレタリア独裁論・暴力革命論が日本の左翼運動に与えてきた影響について、三上さんは次のようにまとめている。

 これは歴史的に見れば議会民主制を超える、国家形態であり、権力形態であると喧伝された。ブルジョア社会を超える制度的な言葉であるとされた。反議会主義として現れる共同意識を吸引する力がかってはあった。そして1960年の安保闘争やその後の運動を担った部分が、この制度的言葉に影響されてきたことは不幸なことであった。日本共産党の50年代の武装闘争路線、日本の新左翼の赤軍派や蜂起戦争派の武装路線の引き起こした悲喜劇はこの象徴である。



 しかし、60年安保闘争でブントが目指したものは「プロレタリア独裁」や「暴力革命」ではなかった。

 それは議会制民主主義が非民主的にしか機能していないことへの抗議であった。それをより直接民主主義的なものに変えよという意思表示であった。正確に言えば、ここは微妙なところであったと言うべきで、ここが思想上の難所であった。急進的な行動は「プロレタリア独裁や暴力革命」という言葉では表現できないものという意識と同時に、「議会民主制」からもはみ出しているという意識もあったからだ。

 直接民主主義の内側にある意識は、どのような制度的な言葉も否定していて、宙づりに状態にあった。急進的行動は、日本の国家権力が民主制的な外観にもかかわらず、内実は民主制とは程遠い存在という直観に根ざしていた。



 議会民主制(ブルジョア民主主義)への不信は、たびたび表明してきたように、私も共有している。その理論的根拠を『統治形態論・「民主主義」とは何か』などで滝村国家論により学んできた。戦後日本の議会制民主制についての次のような三上さんの認識も、ブルジョア民主主義の当然の帰結として、私の共有するところである。

 戦後憲法では国家主権は国民に存在する。それは名目であって、その実際の構造は非民主的である。政党は国民の代表というより、支配制度の代表である。国民の意志とは別の形で支配共同体が存続していて、それは国民の共同の意志とは乖離した存在である。だから国家権力の在り方への異議申し立てと、それを構成し直そうとする意思は、絶えず反議会制民主制として出てくる基盤がある。



 反議会制民主制の運動がプロレタリア独裁や暴力革命ではあり得ないのなら、それにはそのどうな道が可能なのか。その道を見定めるために、三上さんは、まず日本の国家権力の特異性を取り上げながら、過去の運動の問題点を分析している。

 自由民権運動や大正デモクラシーのような運動は民主主義をめざすものだった。これは知識人や都市住民の一部の共同意識に基盤を持っていたにすぎない。日本の国民の大半の共同意識は天皇制の方にあった。そして、国民の天皇の統治力への幻想を基盤とする官僚権力が存在した。その力は強力だった。だから議会や議会民主制は日本の国家権力の主体的な構成体ではなく、議会には官僚という統治権力を統制する力はなかった。天皇の軍隊と議会の関係を見ればこれは明らかである。天皇の軍隊の中から出て来た叛乱が、天皇の周辺の官僚を排除して天皇親政をめざしたのは必然であった。日本の議会政治は党利党略に明け暮れ、その金権体質は国民的には不信の対象であり、天皇に匹敵する魅力ある政治家は存在しなかったし、それを育てることもできなかった。

 国民の国家権力への不信は《議会民主制》を作り直そうというより、天皇親政という幻想に基盤を与えもした。国民の意志が反映される国家権力の創出という革命幻想は右翼的には天皇親政になった。左翼的知識人には「プロレタリア独裁」の幻想が受け入れられる基盤はあった。近代的な国家権力の形態である「議会民主制」を超越しようとする幻想は左右から出てきたが、その基盤をなしていたのは「議会民主制」への伝統的な不信である。

 日本の左翼知識人の議会民主制への不信は根深い。国家権力への異議申し立ても、その構成のし直しという欲求も、反議会民主制という形をもつことは十二分に了解される。この知識人の反議会制意識と他方で「プロレタリア独裁」や「暴力革命」への信奉は重なっている時代もあったのだ。

 そうかと言って、僕らの国家権力への異議申し立てとそのための行動は「プロレタリア独裁」や「暴力革命」とは結び付いてはいなかった。それは別のものだという意識は強くあった。ここには学生たちの急進的行動を国家権力と関係づけることの難しさがあった。直接民主主義といわれた学生たちの行動の歴史的意味を普遍化して理解することの難しさは、ここに理由があった。

 直接民主主義は「プロレタリア独裁」にも「暴力革命」にも結びつかない別のものだとする意識は濃厚であったが、議会民主制の外に権力形態を模索しようという意識もあった。この直接民主主義を表現する制度的言葉はどこにも見当たらなかった。

 政治的な表出意識として理解し、思想的に認識するより方法がなかったのであるが、僕の考えでは「プロレタリア独裁」や「暴力革命」という幻想との結び付きを断ち切っておくことはとても重要なことだつたと思える。それは異議申し立てをし、構成をし直すという運動を制度的言葉の発見や模索と結びつけるために大事だったように思う。

 行動的ラジカリズムの基盤であった行動者の表出意識を直接民主主義意識、あるいは現存感覚としての反権力意識と呼んできた。これは資本主義の高度化の過程と市民社会の成熟が生み出したものであった。これは戦後世代の政治意識であり、共同意識でもあった。

 これは1960年の安保闘争を形成した学生たちの意識として表出されたことを起源にしながら連続し、広がった。その深さには差異があったにしても、連続性をもっていた。安保世代と全共闘世代の差異を語りたがる人もいるが、政治的表出の意識では同一的な枠組みにあると理解した方がいい。そしてこれは今、急進的な表現と結び付いていないとしても、成熟はしている。

 どこかで三島由紀夫は直接民主主義は空疎であると述べていた。それは「プロレタリア独裁」とも「議会民主制」とも結びつかないからであり、制度的言葉にならないからである。この空疎ということは、先に述べた宙づり状態ということと同じである。それをどう扱えばよいのだろうか。



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