2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(109)

『独立左翼論』を読む(21)


 連合赤軍事件の思想面における問題点ついての三上分析のポイントをまとめると、森恒夫(連合赤軍)の思想的な誤りは「イデオロギー的な制度的言葉と個々の行動を支える内側の言葉をつなぐ思想」の欠如あるいは未熟性にあった、ということになる。より具体的には「内側の言葉は《共同的》なものとして安易に同質化できるものではない」という点に対する無自覚であり、それを「同質化ができると錯覚していた」点にある。

 「制度的言葉」と「内側の言葉」との問題は組織と個人の問題と言い替えてもよい。この問題は連合赤軍事件のように極限的な状況下でだけ顕在化するわけではない。この問題は政治組織に属して行動する活動家にとっては、いつ直面してもおかしくない日常的な問題である。三上さんは自らの体験を通して、この問題をどう解くべきかを論究している。これは政治党派に限らず、市民運動の組織や労働組合などのあり方を考える上でも大きな示唆を与えてくれるだろう。


 先に述べたように僕と神津との対立が大きくなったのは、僕の書いた政治論文が一つの契機をなしていた。それは僕が政治局論文として「恣意的自由の擁護」を根底にした政治イメージの形成を提言したのに対して、神津が批判し「集団論」のような対置をしたことである。

 組織観や運動観の対立が徐々に大きくなってきたのであるが、その対立が決定的になったのは、僕の女房の司法試験の受験準備についての批判であった。そこまでいうなら、かってにやれよということになった。

 1973年に僕は、1969年の4月28日の沖縄闘争で実刑判決を受け下獄していた。この下獄の最中に女房は弁護士を目指して、司法試験を受ける準備をすることを決めていた。僕が下獄する直前に子供が生まれ、下獄するときは子供は生まれて4カ月であった。女房は子供を抱えながら僕が中にいる間にいろいろ考えて結論を出したのだと思う。

 釈放されて、女房からこの話を聞いて僕は賛成した。僕も活動は従来と変わらないと思っていたから、生活的には大変きつくなると思った。が、なんとかやっていくしかないし、やれるところまではやってみようと思った。僕には何かの資格試験の準備をやること位しか思えなかった。医者になるから受験勉強をするというのとさして変わらなかった。

 ただ、この間題は活動家の生活問題を暗示していた。当時の叛旗派は党派として専従的活動家の生活は組織として保証しないという考えに立っていた。それは党派として金がなかつたというより党派理念として、党が活動家の生活を支えることはしないという考えに立っていた。

 もちろん、闘争の過程の中で、非公然的な活動を強いられる部分には生活を支える努力はした。それは一種の非常時的な処置であって、政治的な基本理念は専従的な活動家の生活は保証しないということであった。

 政治的な活動家は中心的な活動家になればなるほど、活動に専念し、専従活動家となっていく。ならざるを得ない状況に追い込まれていた。当時の新左翼運動は学生運動が中心であったから、専従活動家の生活問題は潜在的にはあったが、大きな問題だった。

 政治活動を専従的にやれば、生活費を得るために働く時間はなくなるから、生活費をどうするかという問題が必然のように出てくる。学生として親からの仕送りを受けられる間はいい。しかし、卒業したり、中退したりなどして学生でなくなり、なおかつ運動を専従的にやれば、生活費をどうするかということが出てくる。これは直接的には専従活動家の生活問題だが、広く言えば、革命運動と金の問題であった。政治活動と金の問題でもあった。基本的に言えば、専従活動を減らし、ボランティアのように空いている時間に活動するか、党が専従費を保証するかしかなかった。そうでなければ、女に稼いでもらうか、カンパなどの支援にたよるしかない。

 党という政治集団が専従的活動家の生活費を保証するということはあった。前衛党を名乗っている集団はそうしていた。僕も第2次ブントの一時期、学対委員として専従費をもらっていた時期もある。この変形として、生協活動や自治会費などがいろいろの形態で専従的活動家の生活を支えるということもあった。

 叛旗派の場合は、党派は専従的活動家の生活を保証しないという考えであったから、生活費の大半は女房に依存するか、友人などのカンパによるしかなかった。当時、僕も神津もアルバイトらしきものをやっていたけれど、結局は同じことだった。僕も下獄前までは女房に生活費の多くを依存していた。当時の活動家は大なり、小なりよく似た状況にあった。特別に経済的な余力がある場合を除けば、そうするほかなかったのである。

 僕らはすでに述べたように、党が活動家の生活費を保証するという方法を否定していた。党の活動家とよばれる専従的活動家は職業的な運動家になるけれど、それは党に生活を依存した運動家になることを意味する。そして党の活動家は生活のために党に隷属する。また、逆に政治集団は党の活動家の生活のための組織に変質する。専従者の生活のための組織になってしまう。日本共産党も新左翼の組織もほぼそうなっている。



 私が属していた組合に限らないと思うが、組合役員を組合貴族と呼ぶことがあった。これは、組合が組合の「活動家の生活のための組織に変質」し、「専従者の生活のための組織になってしま」っていたことを言い表していた 言葉だった。そのように変質してしまった組合では役員は保身に汲々とし、当然にも闘わない組合へと墜ちていく。その典型は日教組である。昨日、「我々は教育基本法を変え、いい加減な教科書を変えた。相手の方はご存じ日教組。私どもは断固戦っていく。それが自民党だ」と麻生首相が吠えたそうだが、権力の同伴者になってしまっている相手に得意げに力んでいる。オバカ政権だとかアホウ首相とが揶揄されているが、ほんとうにどこまでもピントのずれたアホウだ。

 僕らは専従活動家を党が職業運動家として抱える関係を否定したかった。専従活動家が職業運動家になり、生活のために党に隷属していく愚を避けたかったのである。これはよかったと思う。日本共産党を先例とするような政治組織にならないための模索をしたのであり、その模索を通して追求するものがあったのだから。これは自立した主体が政治集団を構成する一つの在り方だったのだから。

 政治組織が専従活動家の生活を保証するという組織方法を否定するならば、生活費は女房に依存するか、カンパに頼るかしかなかった。生活費を稼ぐ時間と専従的活動とは両立しなかったから、それができなければ、専従的活動を辞めて残った時間で活動を続けるしかなかった。これは僕らが生活と組織活動の間で抱えていた矛盾にほかならなかった。政治運動などが抱えていた矛盾の普通の在り方をそのまま体現していたと言える。

 叛旗派結成後も多くの活動家は専従的活動と生活問題の矛盾で去って行った。専従活動家であればあるほど、この矛盾は厳しく、絶えず、自分で生活費を稼ぐため専従活動家を辞めるかどうかの決断を迫られていたのである。そして、専従活動家を辞めて活動形態を変えて活動を持続することは道として残されてはいたが、自然に活動(政治組織的活動)を辞めることになってしまっていた。

 ここには反省はある。組織活動を変えたり、そこから退いたりするものに叛旗派は組織として柔軟ではなかった。これは神津陽の共同体観念が狭量で、専従活動を辞めることを、共同体的な裏切りのように処理したところがあったからだ。去っていく活動家への対処について僕は神津としばしば食い違ったが、彼の共同体観は出入り自由な組織ということとは違っていた。彼の組織観は出入り自由というより、共同的意志の維持という組織観で、出て行く者に厳格であった。その組織観の違いは肌合いの違いとして組織メンバーには映っていたと思う。

 政治表現は多様なのであって組織を媒介にした表現などもその一つ、というようにはなっていなかった。政治組織が共同性として現れることは確かであるが、それを過渡的なものとみてできる限り出入り自由なものに考えるのと、そこに意志的ものとしての意味を付与しようとするものとは明瞭に違う。この共同性をどう認識するかで、僕と神津は大きく違っていたが、それが抜き差しならぬものへとなって行ったのだ。



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