FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
497 ロシア革命の真相(14)
第三革命:「マフノ運動」(4)
2006年5月10日(水)


 マフノ運動がどのようにしてつぶされていったのかを追ってみる。
 最強の反革命軍=デニキン軍はイギリスやフランスの連合軍から多くの武器弾薬タンク等を支給されて、新たに大攻勢に打って出た。マフノ軍は弾薬に欠乏していた。マフノはそれをモスクワ政府に要求していたが、モスクワからはなんの返事もなかった。白軍はウクライナをほしいままに蹂躙した。

 それに乗じて、トロツキーの赤軍がマフノを攻め始めた。

 マフノ軍は白軍と赤軍との挟撃を受けて、ガリシア方面にまで退却した。数千の農民家族がその財産と牛馬とを携えて、マフノ軍のあとに従った。この大移住軍は、900㎞余りの戦線の間を不断に戦闘を続けながら4ヶ月の間さまよい歩いた。

 2重の裏切者グリゴリエフの白軍は1万ほどの勢力を持っていて、ウクライナの諸都市を占領していた。そしてグリゴリエフはその勢いをもって、またもマフノと結びつこうとした。
 1919年7月、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてその席上、マフノはグリゴリエフの反革命的罪悪をあばいて、自らの手でグリゴリエフを銃殺してしまう。

 1919年9月26日、マフノ軍はそのあとを追ってきたデニキン軍とペレゴノフカ村で一大決戦を試みた。その決戦でデニキン軍の砲兵主力と前衛隊を壊滅し、その本隊を無力化した。

 1920年1月までにマフノ軍はウクライナのデニキン軍をまったく独力で打ち破った。

 するとボルシェヴィキ軍はふたたびウクライナに侵入して、マフノ軍に戦いを仕掛けた。しかしその間に、またしても反革命のポーランド軍とウランゲル軍とが起ち上がった。マフノ軍はまたまた白軍と赤軍との間に挟まれた。

 ボルシェヴィキ軍はいたるところでウランゲル軍に敗北した。メリトポル、アレキサンドロフスク、ベルディアンスク、シニエルニコヴォ等の諸都市を占領され、ドネツ河畔の全石炭鉱区を脅かされるまでにいたった。その結果マフノ軍に和睦を申しこんだ。

 マフノ軍がその全力をつくしてクリミヤの奥深くにまで転戦し、ウランゲル軍を完全に打ち破った時、モスクワ政府は三たびまたマフノに赤軍の大軍を向けた。

 1921年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニアの国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄された。危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、1922年の春ルーマニアをのがれ出た。しかしこんどはポーランドの官憲に捕えられてしまう。

 ソヴィエト政府は、マフノを強盗殺人の刑事犯人として、ポーランド政府にその引渡しを執拗に迫った。それが受け入れられないと手をかえて、マフノの同志と称するスパイを送り、マフノがポーランドに革命を起こす陰謀を企てていたという密告をさせた。

 『そして近くマフノはこのいわゆる陰謀罪の被告として裁判されようとしている。』という文で、大杉さんのマフノの事績を紹介する記事は終わっている。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/122-4b911913
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック