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昭和の抵抗権行使運動(107)

『独立左翼論』を読む(19)


 連合赤軍事件を簡単に復習しておこう。

 共産主義者同盟赤軍派の軍事組織と京浜安保共闘の軍事組織を合併統合した組織が連合赤軍である。1971年7月15日に結成されている。この連合赤軍が起こした二つの事件、「山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」を合わせて「連合赤軍事件」と読んでいる。

 連合赤軍は拠点になる秘密基地を作るために関東地方の山岳地帯に入り、山岳ベースと呼ぶ山小屋を建設して潜伏した。その山岳ベースでの党活動の過程で、「総括」という粛清が行われ、12名のメンバーが殺害された。これが山岳ベース事件である。

 浅間山荘事件は、山岳ベースから逃亡した5人の連合赤軍メンバーが「浅間山荘」という民間の宿泊施設を占拠し、山荘の管理人の妻を人質に篭城した事件である。9日間にわたる警察との攻防の末、人質は救助され、立て籠もった5人は全員逮捕されたが、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)という惨事になった。

 今回この連合赤軍事件についての、三上さんの論考を読んでいく予定だったが、その前に、ふと思い出したことがあって、それを取り上げることにした。

 当時、連合赤軍事件の全容が明るみに出るに従って、いわゆる識者やタレントの妄言がマスコミを賑わした。マスコミに登場する識者・タレントたちの大方は、その時々の時流におもねって、俗論レベルのご高説を得々と語って恥じない。その質の妄言は今も変わらず、大きな事件が起こるたびにしたり顔に繰り返されている。

 連合赤軍事件のとき妄言を、吉本隆明さんが「情況への発言(「詩的乾坤」所収)」で、辛辣に批判している。この論評を通して、いわゆる識者という反面教師たちの正体を知るのも無駄ではないだろう。

 <連合赤軍>事件なるものへの、マス・コミと権力の総和唱のなかで、<政治>的にと<精神>的にと伴奏された政治的知識人たちの、言動をとりあげることから、まずはじめようではないか。山崎カヲルという構革派のチンピラが『日本読書新聞』(昭和47年3月6日号)で、マラパルテという大根役者の『クーデターの技術』に言及しながら、あれよあれよとあきれるほかないことをいいはじめて、<連合赤軍>事件の前ぶれを告白してくれた。

曰く
「Gewaltを本質とする国家の問題と……」「マラパルテが到達しえたのは、戦略(イデオロギー)と戦術(クーデター)の分離可能性という命題であった。真に世界を動かしうるのは『左右』のイデオロギーではなく、『クーデター』という『技術』を習得しえた者たちなのである。」
「我々は、マルクスが『執行権力』としての『軍事―官僚機構』の『破壊』を、プロレタリア革命の第一の目標に置いたことを、思い出しても良いであろう。この真正な命題に到達するために、マルクスの才能などいらないのである。つまり、革命の問題とは、なによりもまず軍事の問題であり、軍事の90パーセントは『技術』の問題なのである。」
「革命の軍事的側面についての我々の理解の貧しさからすれば、マラパルテもまたひどく貴重ではないであろうか。」……

 ざっとこんな具合である。わたしは、ある種のチンピラのいうように、戦争期の体験にしらずしらず固執しすぎているのかもしれないが、それにしても、この<軍事>についての無智蒙昧さはひどすぎる。

 それに構改派といえば、道路が濡れていると、座り込みもやらない三流のスマート・ボーイの集団という先入見があって、いつの間にか、フルシチョフ路線を玉条として組織をつくったいいだ・ももが、第三世界などといいだしたり、山崎カヲルなどが、革命の問題は<軍事>の問題だ、などといいだすようになったのかつまびらかにしなかったので、びっくり仰天するほかなかった。もつとはっきりいえば、いいだ・ももや山崎カヲルのような、猪口才な軟派のスターリニストがつくづく嫌になった。

 わたしが、どんなにマルクスを「思い出」しても、プロレタリア革命の第一目標は、「軍事-官僚機構」の「破壊」だ、などというたわ言が浮んでこないのだ。また、革命の問題は、軍事の問題、軍事の問題の90パーセントは、「技術」の問題だ、などというあほらしい革命論を、まともにきいていられるか。Gewaltを本質とする国家などという国家論は、どこを圧せばでてくるんだ。馬鹿だねえ、この連中は。だが、馬鹿だねえ、でゆるされないのは小山弘健や浅田光輝である。

 山崎カヲルと、ほとんど同じ時期に、小山弘健が『図書新聞』に軍事技術研究の必要を説いているのに出会い、山崎とこみでわたしを驚かせた。すくなくとも小山弘健は、ライフル銃をかっぱらってきて、射撃訓練をやって、<軍事>技術を習得したなどとおもっている他愛ない小僧たちとちがう体験をもっているはずである。つまり、戦前の左翼運動の体験と、戦争の体験を。小山弘健の軍需産業と軍事工業技術の追及は、<生産力理論>のひとつの典型として、そのまま戦争讃美につながっていった。そういうにがい経験をもっているはずである。この経験の思想的な深化の課題は、小山弘健にとっては、思想的な死活の問題ではないのか。だが、小山弘健の発言は、懐かしのメロディーをうたっているにすぎないのだ。昔とった古い杵づかを、青年たちの<軍事だ、軍事だ>という浮かれ話に迎合して、ふところから取り出してみせたにすぎない。そこには、ひねりもなければ、屈折もないのだ。

 わたしは、あまりのひどさに憤りをおさえきれず、たまたま居合せた戦前からのマルクス主義者に、<山崎カヲルのような構革派の青年も、小山弘健のような戦前派の左翼も、軍事などと口にすべきではないのではないか>と語ったのを覚えている。そして、そのとき<軍事>の問題は、<観念>の問題ではないのだろうか。権力が十丁の銃をもっていれば、十一丁の銃をかきあつめてむかえば、権力を倒すことができるというような、プラグマチズムや、撃ちあいに<軍事>の本質があるというのは、まったくまちがいではないか、という考えをのべたことをおぼえている。

 しかり、<軍事>の問題とは<観念>の問題であり、権力のかんどころはどこにあり、そこにいたる経路は、どういう迂路を確実にとおらねばならないか、という筋道を発見する問題である。そんな筋道は、銃撃戦でも、ゲリラ戦でも、やってみないでどうやって発見できるのか、などというべきではない。銃撃戦やゲリラ活動で、筋道がつくくらいなら、なにも苦労はいらないのだ。

 すでに、山崎カヲルや小山弘鍵の発言のうちに、<軍事>というまったく<観念>の問題、政治権力の問題を、<技術>の問題にすりかえてしまう、マラパルテとかマリグーラとかいう、人殺しの技術いがいになんのとりえもない、無智な大根テロリストとおなじ発想がつらぬかれている。マラパルテ『クーデターの技術』やマリゲーラ『都市ゲリラ教程』などは、<技術>的にみても『戦陣訓』や『歩兵操典』以下のしろものである。こんなものにいかれる男たちが、大学の教授であったり、学生であったり、<評論家>であったり、学生運動上りであったりすることの不可解さは解明に価する。

 3月28日、<あさま山荘>に人質とともにこもった<連合赤軍>なるものに、「赤十字」の気持で現地へ駈けつけた浅田光輝は、『週刊サンケイ』(3月27日号増刊)で、二人の学生運動上りと座談会をやっている。わたしは、山崎カヲルや小山弘健の発言をよんだときとおなじように、浅田光輝の発言のいい気さに、ほとほと嫌気がさした。

 学生運動上りが、武装蜂起の決意を語り、<あさま山荘>の<連合赤軍>なるものの銃撃を、武器をエスカレ―トさせた闘争の発端として、高い評価をあたえるのはよい。どうせ、党派的主観を語っているだけで、全情況的な意味などないことは、はじめからわかりきったことだから、気焔をあげていると受けとればよいからだ。しかし浅田光輝はちがう。かれは戦争の体験もあり、戦後にも、日共の党派あらそいのとばっちりで自殺した、中央労働学院の講師の死を契機に、百万言をついやして、日共の非人間的な組織体質を糾弾したものである。その浅田光輝が、あまりに手易く、<武装闘争>を前提とした発言に移行してしまうことが不可解なのだ。知識人とは、そんなちゃちなものなのか。また、学生運動に依存しなければ、知力をもつことが、できない存在なのか。

 そのあとつぎつぎに<連合赤軍>なるもののリンチ殺人が明るみにでてきた。マス・コミもまた、一せいに<連合赤軍>なるものを、非人間的な<狂気殺人集団>として、なぶり殺しにするカンパニアをはじめた。わたしには、山崎カヲル、小山弘健、浅田光輝の発言はこの時点でけしとばされた、とおもえた。すくなくとも、その軽薄な武装へのシンパッシーは崩れおちたとしかおもえない。その時点で、こんどは、ヤブ医者の精神病理学者が、そのヤブさ加減を暴露するために、登場する番であった。

 東京医科歯科大学助教授、宮本忠雄は、『週刊朝日』(1972年3月24日号)で、「女性的犯罪の結末」という<誤診>を公表して、ヤブ医者の落ちゆく先をまざまざとみせている。

 宮本忠雄の診断によれば、<連合赤軍>なるもののリーダー森恒夫は、パラノイアにちかい心理状態にあったとかんがえられ、「自分が全能者だという幻想を抱いた」と推定されている。さらに宮本によれば「パラノイアはふつう性格―環境-体験という三者の複合から形成されるが、森の場合にも既述の偏執的性格、山岳での孤絶の環境、同志の脱落や逃亡といった体験などが条件となって、異常性を強めていったと想像される」ということになっている。

 宮本の診断によれば、永田洋子も同様の心的メカニズムに作用されたと推断され、そのうえ永田にはバセドウ氏病があり、「バセドウ氏病の場合には一般に感情が不安定になり、興奮性や衝動性が高まり、不安・嫉妬・憎悪・怨恨などの情動が刺戟されやすくなる。こういう状態の彼女には人民裁判の検事役はたぶんうってつけのものだったろう。」ということになっている。

 そして、この森と永田の異常な心理が、同様な環境下の仲間たちに、感応(感染)していつた、というのが、宮本忠雄の<連合赤軍>なるものにたいする<総括>的な診断である。クレッチメルの『敏感関係妄想』の受け売りではないか。

 こういう馬鹿気た診断をくだす精神医学者に、世の精神病や精神異常の子弟をもつた親たちは、決して子弟の治療を托すべきではあるまい。宮本の現存在分析学や、人間学的精神医学の看板はどこにすっとんでしまったのか。ここにはつまらぬ常識人の心理的カングリ以上のものは何もないのだ。また、世のバセドウ氏病患者は結束して、こういう馬鹿気たデマゴギ―をふりまく自称精神医学者に、抗議すべきである。

 ここには、心的な存在としての人間存在を、全体像のうちにとらえようとする現象学的人間学の片鱗もなければ、共同存在としての人間の心的な機制の必然性にたいする洞察のひとかけらもないのだ。左翼ゴロ雑誌『流動』のダラクした左翼くずれの編集者におだてられて、特集「吉本隆明をどう粉砕するか」で道化を演じている自分に、歯どめをかける抑制心をうしなって、ついに『週刊朝日』などというくだらぬ週刊誌で、精神医学者として、ひとかけらの見識もない誤診をとくとくとして語るにいたるまで落ちぶれてしまう。その速やかな転落は、何に由来するのか。わたしはあらためて、精神医学的な治療が、同一の患者を基準にかんがえてみても、如何に医学者自身の人間観や人間洞察力に左右されるか、を痛感させられ、いわゆる<皮膚(はだえ)に粟を生ずる>おもいがした。

 わたしは、森恒夫も永田洋子も、精神異常者ではないと確信する。また、宮本のいうように、孤絶した環境のなかで異常性を強めていったともおもっていない。もし異常性がかんがえられるとしたならば、共同存在としての人間の心的な機制は、個体としての心的な機制と、おなじ次元で執ることも、みることもできない心的な領域を付加されるという点にあるのだ。このことを理解しないで、どうして森恒夫や永田洋子の心的な機制に接近することができようか。またこのことの理解があいまいなのは、宮本忠雄の依拠する現象学的精神医学の欠陥でもある。



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