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496 ロシア革命の真相(13)
第三革命:「マフノ運動」(3)
2006年5月9日(火)


 ソヴィエトの権力を簒奪して中央集権独裁を布石していたボルシェヴィキ政府がマフノ運動と相容れないのは明らかだ。ボルシェヴィキ政府軍(赤軍)とマフノ軍はともに反革命軍(白軍)や外国軍と戦ていたが、協力関係はなかった。
 しかし、反革命のデニキン軍の脅威が大きくなった1919年2月にマフノは、ウクライナには入ってきたボルシェヴィキ赤軍の申し入れを受け、初めて共同戦線を組むことにした。マフノ軍は今まで続けてきた南方戦線を受け持った。
 ボルシェヴィキ政府は、マフノ軍の協力を乞いながら、その条件である軍需品の供給を充分に果たそうとしなかった。

 ところで、ペトリュウナ反革命軍が壊滅したとき、グリゴリエフという将軍が配下の兵と武器とを携えてボルシェヴィキ軍に投降していた。ボルシェヴィキ政府はグリゴリエフにルーマニア戦線につくことを命じたが、それに応じないでグリゴリエフは再び反革命の旗をあげた。これがボルシェヴィキ政府のマフノ軍に対する恐れを増幅させた。マフノ軍とグリゴリエフ軍の接近を恐れたのだ。マフノ軍が白軍と手を結ぶなどありうるはずがない。ボルシェヴィキの猜疑心はそのような自明なことまで見誤らせる。

 しかしボルシェビキ政府がマフノを恐れる最大の理由はそれではない。マフノはボルシェヴィキと共同戦線は組んだが、社会革命についてのその思想は少しも変えなかった。マフノ運動は依然として着実にその成果を上げつつ進行していた。


 その民衆は労農階級の社会的独立の原則の上に立って、モスクワ政府が派遣したその代表者の権威を少しも認めなかった。彼らは彼ら自身が組織した機関のほかの何ものにも責任をもたなかった。彼らには彼ら自身の地方ソヴィエトがあり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソヴィエト連合の大会もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、1919年1月、2月、4月の三たびこの大会が催された。
 モスクワ政府は民衆のこの自主自治を許すことができなかった。「労働者の解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉は、また「ソヴィエトにいっさいの権力を」というレーニンの言葉は、もともと国家主義のマルキシズムの真赤な嘘なのだ。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命を創っていくことを決して許すものではない。



 1919年5月5日、共和国防御委員会特別使節カメネフらがマフノ運動の中心グウライポリエ村にやってきて、ただちにそこのソヴィエト連合の解散を要求した。マフノもソヴィエトの委員たちもまた農村の代表者たちも、このような要求は革命労働者の権利侵害であるとして、カメネフらと討議することすら拒否した。

 もしも、と言ってもせんかたないことだけれど、もしもボルシェヴィキ政府がマフノ運動に学んで、「真の」ソヴィエト連邦へと革命の方向を正しく修正していたら、と思わずにいられない。
 ボルシェヴィキが「国家の死滅」へのステップを踏み出さなかった思想的な淵源を、吉本(隆明)さんはレーニンの『唯物論と経験批判論』の理念哲学にあると指摘して次のように述べている。


 レーニンのこの理念哲学はロシア革命政府が支配権を確立した後、ただちに事務処理機関と人員も残してレーニン政府の支配権を解体する手続きを踏まなかった理念的根拠である。ましてやスターリンに至っては、社会国家主義としてファシズムの国家社会主義との双生児にまで転落した。世界的にも国内的にも資本主義的な金融産業制度をどう国家主義に結びつけるかの遠いだけしか残らなかった。(吉本隆明「中学生のための社会科」)



 多分ブレスト=リトウスク条約締結のとき(1918年)にボルシェヴィキ政府の支配権は確立した。その時点で『ただちに事務処理機関と人員も残してレーニン政府の支配権を解体する手続きを踏』むべきだった。つまり「国家を死滅」させる手続きの第一歩を踏む出すべきだったのだ。
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