2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(97)

日大闘争(5)


 バリケード内の学生は吉本さんに「明るく、落着いた印象」を与えていたが、三浦朱門は小説でまったくちがった学生像を描きだしていると、吉本さんは連作『教えの庭』の中の『異分子』という作品の一場面を取り上げている。そして、「三浦朱門の小説作法からかんがえて・・・これにちかい事実があつたとしてもそれほど見当ははずれない」として、日大闘争に直面したときの三浦朱門の言動の思想的背景を分析している。

 ある日、学校へ出てみると、主人公が苦心して集めた現代文学関係の雑誌資料が、研究室を封鎖にきた学生たちによって荒され、雨に濡れて地面にほっ散らかされている。主人公はそれをひろいあげて倉庫に運びこむが、全部集めても全体の三分の一にもみたない。主人公は、将来この資料をつかって重要な論文をかくかもしれない学生たちのことをかんがえ、雑誌をとりもどそうと決心して、ヘルメット学生たちのバリケートの前にたつ。
「雑誌を全部返してほしい。」
「何の雑誌だよ。」

 手前にいる学生が棒をしごきながら、上目使いに見た。はじめから喧嘩腰だった。

「現代文学研究室の雑誌だ。一部はあそこに落ちていた。」
とそのあたりを指さした。そこはバリケードの番人からよく見える位置だった。彼らは沖が何度もぬかるみの中から雑誌を拾い集めて倉庫に運ぶのを見たにちがいない。

「君たちは僕が雑誌を拾っているのを見たはずだ。」
「だから、何だつてんだよ。」
「誰があの雑誌を、棄てたんだ。」
「知らねえよ。誰が棄てたつていいじゃねえか。」
「あれは大切なんだ。あれだけ集めるのに、何年という時間と、千万をこす金がかかっているんだ。」
「そんな大事なものを、誰でもはいれるような研究室にほうり出しておく方が悪いんだ。」
「鍵もかかっていたはずだ。いや、そんなことはどうでもいい。残りの雑誌はどうなっているか知りたい。」
「おい、知ってるか。」

 入口の学生が後ろの学生に声をかけた。彼はそれまで、棒にすがって立ったまま、ニヤニヤ笑いながら、沖と手前の学生の問答を聞いていた。

「さあ。古雑誌なら、今朝、寒いから、廊下で焚火した時、大分燃したな。」
「本当か。」

 思わず、中にはいりかけて、沖は棒で外へおし返された。

「君達の責任者を呼んでくれ。確かめたい。」
「責任者なんていねえよ。皆が責任者さ。」
「君は、何学部の何という学生だ。」
「名前なんかどうだっていいじゃねえか。全部の責任だから。」
「全部というのは、君たちのセクトのか。」
「ちがう。全学生のよ。それから、お前たち全教員のよ。」

 そんな押し問答しても、何もならない。腹が立って仕方がないが、帰りかけた。そばに看板がある。「ネズミ共の牙城、研究室館を、実力を以て解放……」という字が見えた。何が解放だ。沖は力一杯看板を蹴った。看板は隅が破れ、はずみでふらふらとよろめいて、泥水の中に倒れた。



 主人公の沖は、たちまちヘルメットの学生にかこまれ、看板の修理代として千円とられたうえ、謝罪文を書かせられる。

「いいか、言う通り書けよ。謝罪文。私は暴力を振るって看板を破損し、それを制止した学生にも暴力を振い、学生の言論を弾圧したことを、自己批判します。年月日、名前。」

 釈放されてみると、ズボンもコートも泥で汚れていた。傘はもうどこにあるかわからなかった。泥に汚れ、びしょ濡れになって家に帰ると、妻が、

「どうなさったの。」

と驚いて声をかけた。

「学生に水溜りにつき倒された。」

 美都子は一瞬目を見張り、すぐ目をおとした。服を着かえ、風呂場で体を拭いて、机の前にすわると、はじめて、目頭に涙がにじんだ。



 これは『教えの庭』一連の作品のなかでのクライマックスであり、また、主人公の美談の最たるものである。ことに学生どものタテカンを、主人公が蹴っとばした場面のところまで読んできて、わたしはおもわずククとして笑いがこみあげてきた。〈よう大統領その意気だ〉と声をかけたいところである。

 すべからく大学教師たるものは、他のなにものにも頼らず、学生の知にたいしては知を酬い、暴にたいしては暴を酬い、思想にたいしては思想を酬い、腕力にたいしては腕力を酬いるべきものである。そうすれば、現在の大学紛争などは、あらかたけりがついたはずだ。

 主人公の沖は、せっかく学生たちの看板を蹴つとばして、ある眼にみえない意志疎通の境界線がみえるところまで瞬間的に跳躍したのに、つぎの瞬間にはありふれたひとりの知識人にまですべりおちてしまう。そしてこのつぎの瞬間を、ヘルメットの学生たちが見逃がすはずがない。たちまち数人のヘルメット学生にまわりをとりかこまれ、弁償させられ、謝罪文をかかせられる。

 通常の論理では、ヘルメット学生たちが、せっかく主人公が苦心してあつめた雑誌資料を無造作にほっ散らかし、暖をとるために燃してしまったのだから、学生たちのつくった看板を蹴つとばして地面に倒したとしてもあたりまえのことである。また学生たちが雑誌資料を損傷してしまってべつに弁償する気もないくらいだから、主人公が蹴っとばして破損させた看板の修理代をだす必要はないはずである。また、雑誌資料を損傷したことを学生たちが謝罪しないのだから、主人公もまた看板を蹴っとばして損傷したことに謝罪文をかく必要はないはずである。だが、主人公は蹴っとばして破損させた看板の修理代をだし、謝罪文をかいてしまう。

 このとき、主人公の挙動を支配した論理は「話してきく相手ではないし、腕力でもかなわない。仕方がない。」というものである。これは奇怪な倒錯した論理である。

 主人公は学生たちの看板を蹴っとばしたとき、じつは学生たちにほんとうの意味で〈話しかける〉きっかけを作つたといえる。このきっかけから、はたして学生たちが「話してきく相手」かどうかを決めるためには、看板の修理代はださない、謝罪文もかかないという主張と行動がつづかなければならない。そうでなければ学生たちが「話してきく相手」かどうかは確かめられないはずである。

 また、「腕力でもかなわない」かどうかを確か.めるには、学生たちをぶんなぐつてみなければわからない。これはほんとうは腕力の問題.ではない。ヘルメットと角材が、ほんとうは暴力の問題ではなく、客観的な条件から、どうしても権力と接触しきれない距離に封じこめられた学生たちが、権力に接触しようとするときの、焦慮を象徴しているのとおなじように、だ。主人公の論理では、そこのところをどうしても汲みあげることができないようになっている。

 主人公にはこの場面のあとになって、わりあいに正確な反省がおとずれる。じぶんはもともと大学教授などに生き方の重点をおいているのではなく、作家(作中では評論家となっている)を本領だとおもっているはずだ。それなのに教師になったばかりに、現代文学研究室をつくり、資料雑誌を蒐集し、そこにある種の研究者的な夢をえがいたりしたために、じぶんが集めた雑誌資料の損傷にこだわることになったのではないか、というように。

 この反省は大学教師的ではなく、文学者的である。屑屋にとっては、古雑誌などは目方にかけて貫目数十円といったお粗末な紙屑である。また、内容に無関心なばあいには、じぶんにとってさえ、かさばって荷厄介な手におえないしろものである。ところが、内容に切実な関心をもっているときには、一冊に数千円をかけても購いもとめなければならない貴重な資料である。書物のもつこういう奇怪な性格は、日常しばしば遭遇するありふれた体験であるといっていい。

 だから主人公にとっては、千万円以上を投じてあつめた貴重な雑誌資料も、ヘルメット学生にとっては、ことのついでに地面にはうりだしても、薪がわりに火にくべても、さしてさしさわりのない古雑誌にしかすぎない、ということはありうるのだ。そうだとすれば、このような場面で、ヘルメット学生だけがことさら憎々しく描かれねばならない必然性はないといっていい。



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