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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(96)

日大闘争(4)


 吉本隆明さんは『情況・倒錯の論理』で、日大闘争についても論評している。その論評を読むことによって、別の側面から日大闘争が提起した問題を俯瞰してみよう。

 吉本さんは日大全共闘の自主講座の講師を請われて、それに応じている。その時のことを、次のように書きとめている。

 わたしは一度〈自主講座〉というのに頼まれて、日大文理学部に喋言りにいったことがある。たいへん基礎的なことを基礎的にしゃべったので、学生たちに巧く了解できたかどうかまったくわからなかった。ただ学生たちの印象は明るく落着いていて、決してわるくはなかつた。

 駅から構内へ歩いてゆく途中で、〈あんたたちの学校には、ぼくの知っているかぎりでも、いい先生がいるのに、どうして外部からわざわざ人を呼んだりするの〉と訊ねてみた。そのとき、わたしは奥野健男とか、三浦朱門とか、ひと伝えに日大の教師をしているときいている文学者を念頭に描いていた。学生は〈たしかにいい先生がたくさんいます。けれどいまの情況で、内部の先生に講座をおねがいすると、その先生方が教授会のなかで辛い立場に立つことになると気の毒だから、外部からお願いしているのです〉とこたえた。

 わたしはこの学生の発言が正直であるのかどうかしらない。しかしバリケード内の教室での、かれらの明るく、落着いた印象とかんがえあわせて、これくらいの配慮をかれらがもっていることがそのまま信じられるように思われた。



 機動隊によって大弾圧された1968年10月5日以降の日大全共闘の動向については、秋田明大議長の獄中日記(「朝日ジャーナル 69年7月13日号」)とからませながらたどっていこうと思い、今その獄中日記を読んでいるが、それからも私は吉本さんと同じ印象を受けた。

 さて、吉本さんは「いい先生」の一人と想定した三浦朱門を俎上に乗せている。まず、三浦朱門と赤塚行雄の共著『さらば日本大学』から次の一節を引用している。

 いよいよ、芸術学部のバリケードを警察力で排除する時が来たようだった。何にせよ、個人が物理的な力で目的を達成することを、私は認めない。そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう。しかし、共闘は力によって、学校を占領し、学校の財産を破壊し、捕虜に非人道的な拷問を加えたりした。

 全共闘に対する世論もすこしずつ変ってゆき、殊に安田砦のころを境いにして、ヘルメット学生に非難が集るようになった。警官を殺しておいて、「しかし世論は、我々を支持してるんじゃないですか。」とうそぶいてはいられなくなった。

 8月のころは、タカ派の教員が、すぐにも警察を入れるべきだといった時に、私は「警察がそう簡単に動いてくれるものですか。第一、.世論と多くの学生の感情をどうするんです。」と言った覚えがある。

 しかし半年で情勢は変った。私個人としては、日大を一時閉鎖して、大掃除をしてから再開すると考えたのだが、情勢が変ると、共闘さえ掃除すれば万事元通りにやってゆけそうだ、というムードができはじめた。私の考える大掃除は理事会や評議会をふくめたものだが、そちらの方はほとんど手をつけていないというのに、学則の基本的な改正は終ったのだと主張する声が強かった。しかし、そんな変り方だったら、建物にたとえると、ペンキを塗りかえた程度のことにすぎない。

 それですむならそれもよい。たゞ、今の所安田砦などで、暴力学生の悪い面がクローズアップしているが、やがて、もうすこし落ちついてくると、日大の理事の図太さがもう一度思い出されるであろう。その時に理事会の手先になっていることは、私としては釈然としないものがあった。



 ここで表明されている「通俗的暴力論」、あるいは物事の皮相的なとらえ方は、三浦が「文学者」であるが故に、厳しく批判されなければならない。吉本さんは次のように批判している。

 おなじ出来事を対象にして、人間がどれだけ異つた〈事実〉をひきだせるかをしめす典型的な文章である。誇張していえば、空おそろしさを感じさせるものだといっていい。この種の文学者に出あうとわたしは言葉をうしなう。どうしてよいかわからないのだ。

 もちろんこの種の見解をもった非文学者あるいはごくふつうの大衆にはたくさん出あったことがある。しかし、そのばあいに、言葉をうしなうということはない。かれらとのあいだには、通じあう知見がなくても、共通の生活感情があるにちがいないことが信じられるからである。じぶんの近親を延長しただけでも、この種の人物はいくにんもみつけられる。

 しかし、この種の知識人あるいは文学者は周辺にはみあたらない。その生活、その日常性はどういうことになっており、この種の感情をそだてあげるには、人間は幼時からどんな環境にあることが必要なのか、見当がつかないのだ。きつと眼の前に出あってみると、それそうとうに礼儀正しい紳士であり、事物にたいする理解力もそなえていて、かなり好感をもてるにちがいない。しかし、それからあとはどうしたらよいのか。途方にくれて、きっとかれの〈ものの考え方〉だけを把もうとつとめるにちがいない。そして、そこでなら、解釈がつくところがある。

 三浦朱門の〈ものの考え方〉は、「何にせよ、個人が物理的な力で目的を達成することを、私は認めない。そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう。」というところにあらわれている。

 個体がある目的を達しようとするときには、物理的な力をつかうか観念的な力をつかうかのいずれかである。観念的な力をつかうのは認められるが、物理的な力をつかうのは認められないという見解は理解できない。それは選択でもなければ倫理でもありえないからだ。つまり個体はいつも時に応じて物理的な力か観念的な力を行使して挙動している存在で、このことには例外はないといっていい。

 あるいは、三浦朱門は、ここでそんな〈高尚〉なことを言おうとしているのではなく、腕力をふるったり角材をふりまわしたりして他人を圧服させたり、当人の意志に反して追っぱらったりして、目的をとげることは納得できない行為であるといっているだけかもしれない。しかしそうかんがえても疑問は残る。それならば観念的な力をつかって陰険な策謀をめぐらし、他人を圧服させたり追っぱらつたりすることなら認められるのか。そのほうがよほど嫌悪をよびおこし、またよほどひどい行為だといえる場合は体験的にもありうる。これにもまた例外はないといっていい。

 いや、そこまでのことも言おうとしているのではなく、三浦朱門はここで、どうもおれはヘルメットをかぶって角材をふりまわしたりする学生は虫がすかないのだ、といっているだけかもしれない。ここまでくれば、〈はいそうですか〉というよりほかない。体験としていえば、偏見による批判は、反駁によって納得させることもできるが、憎悪や嫌悪にもとづく批判は納得させることはできそうもないとおもうからだ。

 そうだとすれば、三浦朱門が「そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう」というのは、いちじるしい飛躍というべきである。じぶんの虫が好かないという感情を、国家の暴力の合法性とむすびつけられたりしたら、たまったものではない。それに、合法的な暴力は国家のみがもつという〈考え方〉は、論理的な倒錯である。〈国家〉は暴力をもっているときでも、ほかのなにかをもっているときでも、ことごとく〈合法的〉なのだ。なぜならば〈国家〉は、観念的な上層では〈法〉そのものを意味しているから、合法だ非合法だというまえに、〈国家〉イコール〈法〉だからである。



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