2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(93)

日大闘争(1)


 日大には過去学生運動の歴史が全く無い。日大の古田会頭は「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」と、それを自慢にしていた。なぜ日大には学生運動がなかったのか。

 建学理念の保守性を盛り込んだ「学生心得」、それを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動による自治活動の圧殺。これこそが日大の学生自治運動なのだった。

 日大の校舎にはキャンパスといったものがなく、学生が集会を開こうにもひらけなかった。その上、会合、ビラ、掲示などもすべて検閲制で、表現、言論、集会の自由が全くない状態にされていた。自治会もどきの「学生会」があったが、学生が選んだ代表により構成されているものではなく、当局の御用機関であり形式的な自治権を与えられているにすぎなかった。自治会的動きをすれば、直ちに大学側と癒着した右翼体育会学生の暴力的介入が行われた。つまり、日大闘争は、御用自治会と闘うことからはじめねばならなかった。

 このような状況であったが、日大闘争の発火点となる事件が明るみに出た。「理工学部小野竹之教授の不正入学金の脱税・日大使途不明金20億円」という内容の国税庁による発表がそれであった。この事件は、大学を利潤追求の場として恥じない古田体制の矛盾を露呈した事件であった。これを契機に、それまでの学内民主化へのささやかな抵抗が一挙に全学的な闘争となって爆発していった。

「日大闘争、それは日大の根底的な変革闘争である。それ故に〝日大革命″であり、古田体制に対する10万学生の総叛逆をひきおこした〝大衆闘争″であり、同時に日本最右翼大学における叛逆だからこそ、必然的に戦闘性をもつのである」(日大文理闘争委編『叛逆のバリケ―ド』より)

 5月に入って、各学科、クラス、サークル単位で学生たちの討論会が開かれ始め、次第に学部単位の抗議集会へとたかまっていった。そして、68年5月21日、経済学部地下ホールで日大生3万人の集会がもたれるに至る。この日が日大闘争の始まりの日とされている。この集会をきっかけにして、大学当局の意を受けた右翼体育会系学生の暴力に対する全学生の怒りが猛烈な勢いで燃え拡がり、総反撃が始まった。

5月23日
 前日経済学部学生会によって採択・掲示された抗議文の一方的な撤去に対する抗議集会。

集会後、神田三崎町の経済学部1号館前に集まった2000名の学生が日大生としては初めての「偉大なる200mデモ」を貫徹。

 これに対し大学当局はいち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図った。それに反発して学生の数が増え続けた。

5月24日
 経済学部の学生を主体にしていた約800名の学生集会。

 これに右翼体育会系学生が殴りこみ、集会を妨害しようとすると同時に、校舎入口のシャッターを下ろしてロックアウトした。

 さらに、全学的な闘争の高揚を恐れた大学本部は、経済学部に告示をだし、4回の無届集会とデモ行進を理由に、15人の処分を発表した。この処分者の中に、後日日大全共闘の議長となる秋田明大(あきた あけひろ)さんの名もあった。

5月25日
 日大生5000名が錦華公園で集会。神田三崎町の白山通りでデモ。

 白山通りは学生デモで埋め尽くされた。このデモが、大学の強権的学生支配と、その支配下でつちかわれていた学生間の相互不信と無気力を一気に吹き飛ばした。「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」とされてきた日大生が、古田体制に対する叛逆を開始した。

5月27日
 経済、文理、法学、芸術、商学、農学、理工、歯学の各学部学生有志5千余名にのぼる「全学総決起集会」開催。

 この集会で日大全学共闘会議(日大全共闘)が結成され、議長に経済学部の秋田明大さんが選出された。「古田体制打倒」のシュプレヒコールの中、全理事総退陣、経理の全面公開、集会の自由、不当処分白紙撤回など5つのスローガンを決めた。

 以降、体育会系右翼学生の介入と襲撃が激しくなり、流血・負傷が繰り返され、日大闘争は激化していった。 5月28日
 日大全共闘総決起集会。6千余名のが結集し、各学部闘争委員会が結成された。

5月30日
 古田会頭(日大理事会)が、全共闘とは一切話し合わない方針をうちだす。

5月31日
 日大全共闘、大衆団交を要求して3万人デモ。

 大学当局は、臨時休講、ロックアウトで対抗した。正門を閉め、体育会系学生がピケをはった。

 これより以降、日本大学「学生会議」(古田体制の私兵)の車が文理学部の集会に突っ込み、体育系右翼学生が、牛乳ビンや角材をもって殴りこみ、30余人を負傷させた。そのうち3人は、内臓損傷、腎臓出血などで病院に運ばれた。これに抗議する7千人の学生が構内をデモ行進して、大衆団交集会を開催。「大学本部を包囲し、古田会頭をひきずりだし、大衆団交を成功させる」ことを目標にかかげる。

6月4日
 大衆団交が予定されていたこの日、大学当局はまたも大衆団交を拒否。 「全学総決起集会」開催。日大本部前において1万人が結集し、6月11日の大衆団交を要求した。

 6月6日
 日大全学共闘会議活動者会議。

 この会議において、この闘争は、日大を根底的に変革する闘いであり、ストライキ闘争を含めた長期の闘いを決意しなければならないことが確認された。

 一方、古田会頭は理事会を開き、全共闘との話し合いは一切拒否することを決定。

6月10日
 日大本部は、機動隊をも含めた弾圧を11日に行うことを決定。

6月11日
 経済学部で、約8千名の学生が集結し日大全共闘による大衆団交集会。

 この集会に対し学生課右翼グループが襲撃をかけ、学生側に200名以上の負傷者が出た。全共闘は、態勢を立てなおし、大学本部へデモ行進した。そのデモに対し、今度は3・4階に陣取った体育会学生によるガラス瓶投げつけがあり、数多の学生が負傷した。

 秋田全共闘議長は、「断固たる決意のもとに、暴力団の手から学園をうばいかえし、民主化闘争を前進させよう」との""ストライキ宣言"を発表した。急いで用意したヘルメットをかぶった先進的学生を先頭に、再び経済学部前に向かった。とってかえした学生の頭上に4階から10キロの鉄製のゴミ箱が投げ落とされ、デモ隊の真ん中に落ち2名の学生が重症を負った。更に、次々と椅子、机、酒ビン、ロッカーが落とされ、2・3階からは、消火液、催涙ガスがかけられた。日大全共闘が反撃に向かった。

 午後5時頃、大学本部の要請で、機動隊が導入されたが、たてこもる右翼暴力団を排除しないばかりか、その暴力行動を傍観し、抗議する学生に殴る蹴るの暴行をはたらきはじめた。この事態を目前でみた学生は、警察機動隊が、右翼暴力団を守り、古田理事会を守る、まさに国家権力の暴力装置であることを知った。

 学生が隊列を組みデモに移ると、突然、機動隊は、その隊列にジュラルミンの楯をふりかざしておそいかかり学生5名を逮捕した。抗議して座り込んだ300余の学生を足蹴にし、ゴボウ抜きにして蹴倒し、付近の学生たちをこづきまわし解散させた。

 この日の学生の被害は入院した者40余名、全治2週間ほどのもの60余名、軽症者全てを含めると、実に200人以上に達した。

 経済学部から機動隊に追われた学生は、法学部第三校舎を占拠し、右翼暴力団と機動隊の襲撃にそなえるため、急いで武装バリケードを構築した。ここに、日大はじまって以来のストライキ闘争が、右翼と官憲の暴力的弾圧の中ではじまった。

 11日 法学部、12日 経済学部、15日 文理学部、19日 芸術学部、22日 農獣医学部、7月8日 理工学部と、次々にバリケートを築き、それに立てこもって無期限ストに突入していった。ここに他大学でもみられない"最強のバリケード"がうまれた。

 これは、三度にわたって大衆団交を拒絶された学生たちの古田理事会への闘争宣言であった。また、バリケード・ストライキはそれまでの闘争の総括であり、新たなる闘いの開始でもあった。6月11日の闘いをつうじて、敵の暴力に対抗して自らを防御する必要を確認し、ヘルメットをかぶりゲバ棒を握るに至った。

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