2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
495 ロシア革命の真相(12)
第三革命:「マフノ運動」(2)
2006年5月8日(月)


 マフノ軍の活躍を追いながら、マフノ運動が遂行した社会革命はどのような社会システムを目指していたのかをみていこう。

 マフノが率いていた軍(パルチザン)は反革命軍(いわゆる白軍)や近隣列国の干渉(ロシアへの侵入軍)と最もよく戦った軍であった。マフノ軍はさらにボルシェヴィキ政府とも戦わねばならなかった。ここでもボルシェビキ政府の狡猾にして卑劣な「犯罪的愚鈍」を見ることになるだろう。

 大杉さんはネストル・マフノの事績を「マフノはことし(1923)33の一青年だ。」と書きはじめている。マフノの誕生日は1888年10月26日。大杉さんのこの論文の執筆月日は1923年8月10日となっている。マフノは35歳だったようだ。いずれにしても「マフノ将軍」という呼称から受ける印象とは違い、まだ青年だった。
 1921年にはマフノはすでにウクライナを追われてルーマニア獄中にあった。1922年にはルーマニアからポーランドに逃れたが、そこでも捕縛・投獄されている。つまり、大杉さんがこの論文を執筆しているとき、マフノはポーランドの獄中にあった。その後の経緯は詳らかでないが、マフノは1934年7月25日パリで病死したという。

 この稿は大杉さんを語る場ではないが、この年の大杉さんのことを書きとめておく。
 大杉さんはヨーロッパへ密出国していたが、5月パリ郊外で演説中に逮捕され、フランスを追放されて7月に帰国。そのときのヨーロッパ旅行中に入手した資料をもとに「無政府主義将軍」を書いたのだろう。
 この年の8月に長男をもうけている。マフノにちなんでネストルと名づけた。薄幸の子で1年後に病死している。
 9月1日に関東大震災が起こる。9月16日、弟への見舞いの帰路、同行した伊藤野枝さんと甥の橘宗一くんともども憲兵隊に拘引・虐殺された。大杉さん38歳、野枝さん28歳、宗一くん6歳だった。

 さて、マフノは貧しい農民の子として生まれた。7歳の頃から農家の手伝い、小作人などをして働いた。受けた教育は小学校1年間だけだった。

 1907年
 18歳。無政府主義テロリストとして憲兵と数名の警察官とを暗殺し、捕えられて終身懲役の刑に処せられる。獄中では歴史や自然科学や政治学や文学などを熱心に独学した。

1917年3月1日
 2月革命による政治犯の釈放でに出獄する。
 釈放後すぐその郷里グウライポリエ村で地方ソヴィエトや労働組合を組織して、農民や労働者の間で働いた。
 夏には、地主からその土地を奪いとる農民の革命運動の中心となった。

 1918年
 ドイツ軍とオーストリア軍がウクライナを占領した時、6人の同志と一緒に、武器をとってそれと戦いながら、タガンログやロストウやツアリスティンの各地を走り回った。
 6月、グウライポリエに帰り、そこにパルチザン軍を組織。ボルシェヴィキ政府との間の条約のもとにウクライナに軍政を布いていたオーストリア軍や、スコロバドスキーの反革命軍をおおいに悩ませた。


 このパルチザン軍は、かくして反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民衆には非常な喜びと力とを与えた。
 マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、僅か7人の小団体から出発したものがその年の暮にはもう4、5千人の大軍隊となった。そしてマフノは総大将と仰がれて、ウクライナ南部一帯の反逆農民をそのもとに集めた。



 ドイツ・オーストリアの侵入軍、スコロバドスキーの反革命軍、それに代わって起こったペトリュウナの反革命軍。マフノ軍は、それらを次々に撃破。そしてついに最大の敵・デニキンの反革命軍と対峙する。


 このデニキン軍との戦いには、戦線が百ヴェルストあまりにひろがった。そしてマフノはその全線にわたって、あらゆる機会を捕えて、農民と労働者との地方的自治を説き、その自由ソヴィエトが各地独立してその経済的および社会的生活をみずから組織することを勧めた。

 マフノのこの宣伝はマフノ軍の戦線のいたるところに採用されて、それがウクライナの農民労働者の大衆の一大運動となった。マフノはそれらの農民労働者からバティコ・マフノ[父マフノ]と呼ばれ、マフノ自身もまたしばしばこの名を用いた。そして民衆のこの大運動はマフノビチナの名によってウクライナ以外にまでも知られはじめた。

 マフノビチナの行われるところには、まず各村に、自由に選挙されるソヴィエトが組織された。そしてこのソヴィエトがその村のいっさいの生活を決定した。地主の土地は没収されて、農民の間に分配された。農民はあるいは一人一人に、あるいは共同に、その土地を耕した。

 ドン河付近にいるコサック兵がこの農民の生活を妨げそうな勢いになると、マフノビチナの村々は大会を開いて、各村から若干名ずつのパルチザンを動員する。動員された農民はマフノ軍のもとに集まる。そしてその危険が過ぎると、また各村に帰ってその平和な仕事につく。かくしてマフノ軍の大部分は農民によって組織され、その糧食は農村から支給された。

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