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395 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(47)

激動の朝鮮半島(1)

2005年10月21日(金)



 『三国史記・新羅本紀』(岩波文庫版)の「倭人伝」の最初の記事は次の通りである。

 倭人、兵を行(つら)ねて、辺(へん)を犯さんと欲す。始祖の神徳有(あ)るを聞きて、
乃ち還る。(第一、始祖赫居世居西干八年条)

 BD50年のことである。以下ほとんどが侵略してくる「倭国」との血みどろの攻防の記事が続く。最後の記事はAD802である。

(以下、古田武彦「日本列島の大王たち」による。)

 さて316年の西晋滅亡の前夜の朝鮮半島の情勢はどうだったか。
 『三国志』の東夷伝によれば、北方では高句麗が魏と交戦している。これは毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征を記した石碑(残碑)にも明らかだ。それのよると、魏の幽州の刺史、毋丘倹が高句麗王の位宮を西安平(地名)に破り、さらに長駆して日本海岸にまで達したという(魏志毋丘倹伝)。244年のことである。高句麗伝によれば、その高句麗王は西晋代にも在位していたことがわかる。

 一方、南方では魏と和親した「親魏倭王」の国、つまり博多湾岸とその周辺 を都城とする邪馬一国=倭国が北に対峙していた。倭人伝によれば、壱与が西晋朝に貢献したのは266年であった。

 316年、新興匈奴(前趙)の劉曜が西晋の都、洛陽と長安に侵入し、西晋第四代の天子、愍帝(在位313~316)はこれに降服した。この西晋朝の滅亡が、東アジア世界に与えた衝撃は絶大だった。東アジアの政治・軍事上の力学的関係に激変をまねいた。
 西晋朝の滅亡後、元帝(在位317~322)が建康(今の南京)に東晋朝を建国したけれども、華北方面には、いわゆる五胡十六国が相次いで建国され、いわゆる南北朝の時代に入っていた。したがって朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡は、形式上は東晋朝に属しながら、実際は、政治上・軍事上において空白、もしくは亀裂を生ずることとなった。東夷諸国はその激動の坩堝の中に入った。北の高句麗と南の倭国が激突し、百済と新羅がこれに連動して敵対する。朝鮮半島は一大修羅場と化したのであった。

 ところがこの東アジアの激動を伝える記事が「記紀」には皆無なのだ。「記紀」はヤマト王権が4世紀代において既にヤポネシアを代表する王家であったと見せかけることに汲々としているが、こような重大事変の記録の欠如は一体どうしたことか。もちろん、このころの「倭国」とは九州王朝のことだからだ。

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