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昭和の抵抗権行使運動(86)

東大闘争(3)


 前2回で東大闘争のあらましを追った。今回は実際に安田講堂の攻防を目撃した人の生々しい記録を、前2回の記事の補充として転載しよう。資料は「朝日ジャーナル(69年2月2日号)」の「新しい季節へのうつろい ― 安田トリデの攻防」という記事で、とても優れたルポルタージュだと思う。無署名記事で、筆者は(ん)と略記名している。たぶん朝日ジャーナルの記者さんだろう。

新しい季節へのうつろい    ― 安田トリデの攻防

存在の根源へ

 東大の安田講堂ならびにそのほかいくつかの建物が、機動隊によって攻め落される現場を私は見た。みなさんの多くもまた、報道によって、そのもようをお知りになったと思う。とくにテレビの現場中継はなまなましかった。

 1月18日から19日にかけて、社会の耳目は本郷に集中した。それはもはや、東大の入試が行われるかどうかとか東大が持っている社会的意味がどうこうとかいうことを乗越えた地点での関心であった。それは、人間の存在の根源に触れる事件であった。

 東大がどうのということは、いわば制度の、形式の問題である。だが、実際の攻防戦を行なったのは人間たちであり、しかも、それは見ている人に対して、その意識の深い領域にまで迫るイメージとしてあった。あえていえば、人間が生きるということは結局このようでしかありえないのかどうかという問題であった。

 たてこもつた学生たちの行動は、実は彼らの行動が現わしうる領域のかなたにあるものへの志向であった。そして、彼らの行動をそのようにとらえた人は、自らの存在に耐えがたい嘔吐をもよおし、人間を形式としてしか見ない人は、パリサイ人のあざけりを彼らに与えて去って行った。



 18日午前5時45分。安田講堂のいわゆる「時計台放送」は次のように叫んだ。これが幕あきであった。

「こちらは時計台防衛司令部。ただいま、機動隊は全部、出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれのたたかいは歴史的、人民的たたかいである」

 それから一時間ほどして太陽がのぼった。機動隊はそのあとでやってきた。時計台の頂上に立てられた赤旗と淡青旗の向うで、空は色を失い、化粧レンガの色は、いっそう深いものになった。

 そのとき、彼らの言葉を越えたところで、たしかに何かが賭けられたのだ。だが、それを具体化する行動として、彼らは、月給をもらって民衆を「整理」するプロフェッショナルを相手にするという、みにくい闘いしか表現方法を持たなかった。それが、この事件に矮小な外観を与え、その点にしか視線をそそぎえない人に対するつまずきの石となった。

 では、いったい「東大闘争全学共闘会議」が起した運動は、結局、何であって、どうしてここまでやれたのだろうか? いまこのことが、ことの善悪に対する評価を越えて明らかにされなければ、東大を荒廃に招いた代償はえられないであろう。

 問題は端的に煮つまっている。それは「かかる状況のなかにおいて、なお自由に生きることは可能か」という問いかけであった。

 第一の答えは明らかである。それは不可能だ。だから彼らはその現実的表現として、全員逮捕されたのだ。だが、問題をこのように設定した以上、生きることの営為の深みにおいて、それは可能であるという、さらに高次元の答えが用意されていた。彼らは、彼らなりに、その存在の秘められた封印を切って、その答えを知ったのだ。

 「問題をこのように設定した」とは、一っには、存在論的にということであり、一つには「自由に生きること」という述語に対して、主語がなかったことが示すように、すべての人に対して問われる問題だということである。そして「すべての人」とはもちろん、なんらかの意味において抑圧された人であり、抑圧された人こそ人間的特権を持っているのだ。

 このことが、見ている人に対して、共闘会議に対する多くの根強い批判は批判としてなお自ら考えさせる要因となった。自由ということは、抽象的、幻想的なものではなく、具体的、現実的なものなのだ。自由は人間の行動によって表現されたとき初めて存在しうるのである。それが、18、19の両日にわたって、安田講堂が多くの人をテレビの前にひきつけえた理由であったろう。

 時計台の上に立つ学生のシルエットを見て、「カッコいい」といった人は、単純で、いわば無責任な表現方法しか知らなかったけれど、実は、このことを、心のどこかで感じていたにちがいない。

終りなきたたかい

 19日午後5時45分。機動隊の姿が、最後のトリデである屋上にまで達したとき、電源を切られて「時計台放送局」は死んでいたが、ハンディ・マイクが次のように叫んだ。これが終幕であった。

「こちらは時計台放送局です。時計台放送は再び真に再開されるまで休みます」

 報道によれば、全学共闘会議は、かねて「われわれの闘争は終りなきたたかいだ」といっていたそうだ。この最後の放送はそれをいいたかったのだろう。そして、その夜、神田の学生街一帯は、「東大闘争支援」「東大奪還」を唱える多くの学生たちによってバリケードを築かれ、相貌を変えた。

 東大全学共闘会議は、これまでにもたびたび日大全学共闘会議と共催して集会を開いてきた。これはセクト間共闘ではなく、個別学校の共闘会議間共闘であり、おそらく、日本の学生運動史に新しい一時期を画するものであった。東大、日大の事例は古い時代の終りであり、新しい時代の開始を告げている。従来のような形での個別学園闘争は変貌してゆくであろう。

 学生たちのいわゆる「国家権力」は、本郷の「東大闘争」のために、神田へ、明治へ、中央へ、日大へと警官を出動させなければならなかつた。これが、60年安保全学連が崩壊したあと10年の執行猶予のうち9年目にして、学生運動が出した回答であった。

 安保以降、学生運動は大きな街頭行動は組めなくなり、学園内闘争に主力をおくようになった。そしてまさにそこにおいて、大学とは何をするところなのか、自分は何のために大学にいるのか、つまり自分はどのように生きようとしているのか、ということが問われていった。昭和41年の「早稲田闘争」以降、明治、中央と受けつがれてきた思想はそれであり、東大、日大はまったくその延長線上に、そしてその極点に位置した。

 一方で街頭行動は「日韓闘争」「砂川基地闘争」をへて、一昨年の「羽田闘争」以降、再び社会に大きな衝撃を与えた。その行動の激しさが、東大、日大に引きつがれてることは明らかだろう。

こうして片方における「学園闘争」の思想のつきつめ、一方における街頭行動の激化、この二つが交差したところに、現在の学生運動はおかれている。

 60年安保闘争は、もう昔ばなしのようである。『朝日ジャーナル』1月19日号の最首悟氏の論文(「玉砕する狂人といわれようと」)のなかに、60年当時、大学は帰るべきところとしてあった、と書かれている。樺美智子慰霊集会には、学生も教官もともに手をとりあって焼香した。だがいまは・・・・・・。

 学生運動の思想は、ただ単に、一組の支配者を他のものと取りかえる試みより、はるかに遠くまで行ってしまったようにみえる。それはいまや、自由に生きるということの、全存在をかけた試みとなったのだから。

反逆のバリケード

 さて、人間が自由に生きるということがどのようなことであるかは、彼がおかれている個別的状況によって異らざるを得ない。なぜならば、自由の企てとは、ほかならぬ彼を取巻く状況を具体的に乗越えるところにあるからだ。全学共闘会議の学生たちは、どうどうたる世の非難にさからって、それをスローーガン的には「大学の帝国主義的再編反対」とい言葉で現わし、具体的行動においては、教室、研究室、大学事務局を占拠するという自己流の表現をとった。

 「東大闘争」に対して「日大闘争」がもった意味は大きい。日大生たちは、「こんな日大ならつぶしてしまえ」と叫んだ。現体制の管理者養成機関である東大の学生たちは、「こんな東大ならつぶしてしまえ」と主張するものが共闘会議に走り、それ以外のすべては「東大を守れ」と叫んだ。

 共闘会議に属する部分は、まず初めに、自らの心のうちなる東大を否定しなければならなかった。それがすなわち、彼のおかれている状況のなかでなお、彼が自由に生きるという企ての唯一の方法であるとかたくなに信じた。自分が自由に生きるということは、他人に対しても由に生きることを要求することであった。ことがらはすべての人間にかかわる問題だったのだ。安田講堂にたてこもった学生たちが、機動隊に向つて、「東大闘争の意味」なるものを演説したのは、彼らのいう「国家権力の暴力装置」に対してもまた、彼らの信ずる自由の意味を説明しようとしたのであろう。

 こうして、彼らが否定している教育の場である大学の建物そのものが、まさに彼らのトリデとなり、彼らが自ら破壊した、心のうちなる東大を形成した机そのものが、「反逆のバリケード」となった。



 機動隊が構内に姿を現わしてまもない18日午前8時20分ごろ、正門前にいた青年・学生たちが警備線を突破して約300人のデモを組み、講堂前まで進んだ。彼らと講堂の屋上の学生たちは、たがいに手を振りあった。凄惨な二日間が始る前の、ひとときの点景であった。

 このデモの中心は反戦青年委員会の労働者たちだった。この日は15日に続いて「労学総決起集会」が開かれる予定になっていた。つまり、「東大闘争」には、労働者が参加していたのだ。それまでにも労働者の参加はあった。だがそれは、特定のセクトのメンバーとして、そして多くは特定の色のヘルメットをつけての参加であった。

 この新しい事態は、安田講堂およびその他の建物の、物理的な攻防戦の陰にかくれて、世間の目をひかなかったものの、実は注目すべきことであった。

 それにしても陰惨な見せ物であった。そう感じるには、視点の問題が重要な要素となっていた。ほかのことなら、われわれは警察の側からも、またその逆の側からも見ることができる。だが、この籠城戦ばかりは、初めから終りまで、警察の側から見守るしかなかった。

視点の位置

 ガス弾は打続けであった。しばしば直撃をねらっていた。それはもはや催涙が目的ではなく、ライフルを持たない警察が使う、実質的なその代替物であった。

 射手は一列横隊に並び、地上から上に向けて、あるいは隣の建物の屋上から水平に銃をかまえ、屋上の学生が顔を出すたびに射撃した。そのために、眼球破裂や口蓋破裂で重傷者が続出したという(『朝日新聞』1月19日)。

 「あたったあ」とこおどりせんばかりに喜んでいる機動隊員の姿を目撃して、私は西部劇を思った。白人の視点に立ってインディアンをやっつけてゆく西部劇を。あるいはまた「ベトコン」をやっつける米軍を見ているようでもあった。そして、自分の視点がそういう場所にしかないということを感じるとき、実に陰惨な思いであった。



 われわれの生命はたえず何ものかによって侵されている。その何ものかとは、資本いい、時間といい、あるいは非現実という言葉で現わそうと、ともかく非人間的なものである。共闘会議は「国家権力」も、つまりはそれだという。だが、安田講堂を攻めたものは、なまなましい人間的なものであった。

 そして攻める側が人間的であると主張し、あるいはそうよそおっているとき、相手を非人間的なものと措定する傾向は強く生れてくる。たてこもる学生たちはまるで虫けらのように扱われていた(断っておくが、私はここで視点の位置による人間的観察を行なっているのであって、道徳的非難や、あるいは正当防衛論その他の法律論を展開しているのではない)。

 〝催涙″弾の直撃、〝催涙″液の強襲的な放水、そして〝催涙″剤の空中からの散布。この最後のものは、殺虫剤散布のおもむきであった。それは、ヘリコプターの爆風の使用とともに〝催涙″のためだけではなく、全身衰弱をねらっているようであった。

 ここではもう見ていること自体が一種の責苦であった。そしてテレビを通して見ている人も、それを免れることはできなかった。それが苦しく、しかもなお見続けている人は、どこかに救いを求めようとした。

夕暮れの静寂

 第一の救いの手だては、共闘会議を非難することであった。彼らがこのように、武力的に見て絶望的とわかっている龍城戦を行わなければ、自分もこんな胸の悪い思いをしなくてもすものに、というのがその論理であった。

 第二の救いは向うからやつてきた。二日間にわたった攻防戦の終末近く、安田講堂の屋上の学生たちは、抵抗をやめ、残された人数で最後の集会を開いた。機動隊がそこまで踏込んだときも、だから、地上からはよく見えなかったものの、そうひどい取扱いを受けたわけではあるまいと推測したのだ。

 私の友人たちは口をそろえていった。「最後の場面がせめてもの救いだった」と。こういう慣用句は深い吟味なく使われ、共闘会議に対する救いだという、漠然たる思いを込めていたのかもしれないが、もちろん、自分に対する救いだったのである。



 トリデの頂上で赤旗を振っていた最後の学生も連れ去られたとき、あたりにしばらくの静寂があった。夕暮れのなかに、講堂の影は再びとけ込もうとしていた。燃え残りの煙が、時計台にまつわっていた。

 ジャンヌ・ダルク火刑 ― のちの歴史が、名誉回復を宣言したとき、火刑台上のジャンヌ・ダルクは、奇跡によって昇天したという信仰が生れた。それもまた、共犯者のやりきれなさが生んだ自分への救いであった。

 そしてこの世のこわさは、同じ時間に、同じことが、別の場所では平然と行われているということである。駒湯の第八本館にたてこもった共闘会議系に対する包囲がそれであった。

 私は現場を見ていないので、この間の事情をよく報道していた『朝日新聞』によると、代々木系学生と一般学生の連合軍は、あらゆる方法で龍城組をいじめた。まず、この建物の電源とガスと水道を絶った。さらにガラス窓を投石で割り、吹きさらしにした。そして昼夜をわかたず見張りを立て、兵糧攻めにしたうえで、差入れにきた人たちにも乱暴を加えた。また夜眠らせないためドラムかんをたたいて近所から苦情が出たこともあり、殺虫剤を、占領した一階でたくといった戦法もとった。そして「オレたちは機動儀ほどやさしくないぞ」と叫び、概嘆すべきことには「20日からは病人の救出も代々木系に断られたといっている」そうだ(『朝日新聞』20日付夕刊)。

 21日になって、やつと彼らは迎えにきた全学共闘会議と一部教官に守られて撤退した。包囲組はもともと、暴力で排除せず自主的な撤退を待つという態度のはずだったのだが、籠城組が去るとき、「逃げようとする共闘派学生をひっぱりこんでヘルメットをとったり、袋だたき」(『朝日新聞』21日付夕刊)「リンチを加えた」(同日付『毎日新聞』夕刊)というありさまだったという。

 そしてもつと不可解なのは、この事件に対する大学当局の対処の仕方であった。

 つまり、1月9日、本郷の経済学部に代々木系学生たちが逃げ込み、それを追って共闘会議派がバリケードを解きかかったとき、人命の危険という名目のもとですぐ機動隊を導入したのに、この兵糧攻めについては、一部の良心的教授の個人的動きをのぞいては黙殺する態度に出たのである。

 はっきりいって、大学当局と代々木系学生との連動は、入試実現のための利害の一致からであった。そうして、そのために、一年にわたる「東大闘争」のにない手であった共闘会議をソデにした結果が、大学の荒廃と入試の中止とは、まったく皮肉であった。

 歴史がひとつのうねりを示すとき、ふだんは底にたまっていて見えない人間の醜悪さが、悪臭を放つガスのように、ぶくぶくと表面に出てくることがある。ジャンヌ・ダルクはいつの時代にもいるのだし、またそうである以上、死刑執行人もいつも存在するのだ。




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