2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(82)

学園闘争とはとは何だったのか。


 東大・日大で始まった学園闘争は、燎原の火のごとく、たちまち全国に広がっていった。

 1969年1月、バリケード封鎖で越年した大学は東大、東京教育大、東京外大、電通大、日大、中大、明学大、青学大、芝浦工大、山梨大、富山大、大阪大、神戸大・関西学院大、長崎大の25校。

 2月には、闘争中の大学はさらにその数を増した。京大、立命館大、大阪市大、岡山大、和歌山大・関東学院大・福島医大、お茶の水女子大など、全国で70余校を数えた。

 契機はそれぞれの大学でいろいろであった。それは学費値上げ反対であったり、寮の管理運営権の問題であったり、中教審路線による大学再編と管理操作体制への反対であったり、あるいは自治会のヘゲモニー争いであったりした。しかしその根底には、闘争が全国的に爆発していく根源的な問題があり、それが普遍的な問題として自覚されていった。ノンセクト・ラジカルが主勢力を担うことになっていく所以である。

 その根源的問題とは、支配階級が露骨に打ち出してきた教育の管理体制強化の方針であった。それが、教育が学生の労働力商品化に他ならないことを際立たせていった。自らの労働力商品化を拒否するということが闘いの普遍性を示していった。それは「自己否定」という言葉によって象徴された。

 例えば東大闘争においては、医学部不当処分問題から端を発し、全学的な闘争へと進展していった。この闘いが単なる要求闘争から大学解体闘争へ飛躍していつたのは、国大協路線による教授会自主規制粉砕闘争を通じてであった。東大闘争はこうしたなかで、大学自治の一切の幻想性を暴露していった。

 また日大闘争においては、68年5月21日の集会を皮切りに、授業料不正使用に対する闘争として一挙に全学化し、9月30日の大衆団交で勝利し、解決の一歩を踏み出すかに見えた。しかし、佐藤栄作の介入により9・30確認事項・団交確約は破棄される。その結果、日大闘争は教育資本としての私立大学を産学協同路線の下に完全に企業化している実態を暴露したのあった。

 以上のような経過をたどっていった東大―日大闘争を先頭とした全国学園闘争は、次のような点において、それまでの闘争にはない全く新たな質をもった闘いであった。
①闘争の世界的普遍性
②闘争の日常性に対する根源的変革志向=自己否定
③ポツダム自治会の幻想性を打破した全学共闘会議(全共闘)という組織形態

 ③について少し説明を加えると、ポツダム自治会は一種の代行主義と、多数決の原理に基づく間接民主主義であるのにたいして、「全共闘」は直接民主主義であり、「行動隊」としての要素を持った組織として形成された。いわば〝コンミユ―ン″の崩芽を内包していた。また、「反大学」「自主講座」という学問・思想を点検し再構築する作業にも着手していった。反大学自主講座は、学園の枠を越えて労働者、学生、市民に解放されたものとして位置づけられ、「教える―教えられる」という関係性を止揚すべく、自主的に運営された。

 こうした思想的・社会的構造を持った全共闘は、69年1月18日~19日の東大安田講堂攻防戦を一大頂点として燃え広がったのである。大学という社会の一角からブルジョア支配秩序が音を立てて崩れていくことに恐怖した権力が、一大決戦の場として攻撃を開始したのがこの安田講堂攻防戦であった。これにたいして全国の先進的学生、革命的左翼が一丸となって闘い抜いた、まさに歴史的な闘いであった。

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