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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
494 ロシア革命の真相(11)
第三革命:「マフノ運動」(1)
2006年5月7日(日)


 官許ロシア革命史を鵜呑みにしていた(あるいは今でも鵜呑みにしている人が多数派かもしれない)人たちの一般的な見識では、ボルシェヴィキが遂行した革命(実際は反革命)に対しては代案はあり得なかったことになっている。しかしその代案(真の革命)を遂行していた農民・労働者たちが、ロシア革命の真っ只中にいたのだ。その「真の革命」は、その革命を担った人たちが運動の中で育て上げたひとりの傑出した人物の名を冠して「マフノ運動」と呼ばれている。

 まず自称無謬の主義・思想つまりイデオロギーがあって、それを民衆に強制しようとする愚、ボルシェヴィキの「犯罪的愚鈍」にロシアの民衆はおおきな犠牲を強いられたが、それは貴重な反面教師ではあった。
 最初に主義・思想があるのではない。民衆の自主的・自立的な活動が新しい思想の萌芽を用意するのだ。マフノ運動は期せずしてあたかも、リバータリアン社会主義を髣髴とさせる共同体創出の試みであった。資本主義と国家を廃絶した後の、最も理想的なシステムが形成されつつあった。ここには私(たち)が学ぶに値する多くの示唆があり、私(たち)に豊かなイマジネーションを与えてくれる。

(ここからは「アナーキズムFAQ」のほかに、大杉栄さんの論文「無政府主義将軍 ネストル・マフノ(1923年8月)」を用いる。)

 ロシアの民衆の自然的・自主的な活動から始まったロシア革命に多くの政治党派が群がってきた。本来は民衆に属すべき権力を簒奪して、自分の党派の独裁を手に入れ民衆の上に君臨するために。大杉さんはロシア革命進行中にすでにそのことをしっかりと見抜いていた。大杉さんはマフノ運動(大杉さんは原語の通り「マフノビチナ」と呼んでいる。)の本質を次のように記述している。


 ある者は民主主義の名のもとに、ある者は社会主義の名のもとに、ある者は共産主義の名のもとに、ある者は民族自決主義の名のもとに、ある者は帝政復興の名のもとに、ある者はまたこれらのあらゆる牛馬どもを同じ一つの秣桶の中に集めるという名のもとに、いずれもみな掠奪者を解放するのだと広言しつつ容赦なく民衆を圧迫し、動員し、劫掠し、攻撃し、銃殺し、また村落を焼き払う。そしてついに、この強盗放火殺人の犯罪人どもの中で一番狡猾でそして一番凶暴なやつらがクレムリンの王座に坐りこんで、無産階級の独裁の名のもとに、いったん解放された労働者や農民をふたたびまた前にもました奴隷状態に蹴落として、完全にロシア革命を圧殺してしまった。これがいわゆるロシア革命なのだ。ボルシェヴィキ革命なのだ。
 けれどもこの強盗放火殺人の犯罪人どもがお互いに、また民衆に対して、その凶行をほしいままにしている間に、ロシアの民衆はただそれに利用され、またそれを甘受していたのだろうか。
 決してそうじゃない。ロシアのあちこちで、この犯罪人どもに対する民衆の自衛運動が組織され、ことに中央ロシアやシベリアやウクライナでは、民衆のこの自衛運動が革命的一揆の形となって現われた。そしてそのもっとも強大な運動がマフノビチナであったのだ。

 由来ロシアの中でも一番自由を愛するといわれていたウクライナの民衆は、いったん彼らが破り棄てた鎖をふたたび彼らにゆわいつけようとするところの、あらゆる国家主義的権威に反逆して立った。彼らは自由を求めたのだ。そして自己保存の本能と、革命のいっさいの獲得物を維持していきたい熱望と、どんな権威にも対する憎しみと蔑みとが、彼らを駆ってこの反権威主義的闘争に、無政府主義的闘争に走らしめたのだ。



 大杉さんのボルシェヴィキに対する激しい怒りが伝わってくる。この論文が書かれた前の年1922年に「チェカ」は「国家保安局(ゲー・ペー・ウー)」へと、さらに暴虐な国家「犯罪」組織に昇格?している。ボルシェヴィキ政府によるアナーキストなどへの弾圧はさらに猖獗を極めていった。
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