2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(79)

『独立左翼論』を読む(15)


 三上さんが言うところの「歴史的な限界」を具体的に言えば、次のようになるだろうか。つまり、高度資本主義の段階に入った先進国には、ロシアや中国におけるような暴力革命の基盤も現実性もない。先進国での国家(政治)の課題は暴力革命ではあり得ない。

 では、現実のさまざまな問題から浮かび上がってくる課題は何なのだろうか。その課題は、レーニン的な国家論(国家=階級支配の暴力装置)に依拠している限り、正しく把握されることはないだろう。三上さんはレーニン的国家論に代えて、「国家の本質は共同幻想である」という吉本隆明国家論に依拠して論究を試みている。

 国家の本質を共同幻想として理解することから、この共同幻想の構成や構造を変えること、それを政治的言葉としてそれを展開することは可能である。

 国家を開くというのもそういう政治的言葉である。宗教・権力・民族・戦争・言論の自由などの歴史的構成と構造をどのように変えていくかということを、国家(政治)課題として提起しなおせばよいのだ。

 国家権力をどの階級が握り、道具として行使するかではなく、権力の構成はどうあるべきか、権力はどのように制限されるべきかなど国家的課題を別の形で提出すればよい。

(中略)

 レーニン的な政治理念に基づき、国家権力の暴力的な打倒を志向するなら、行動は《革命的暴力》のような言葉としてある。武装闘争や軍事闘争は革命的暴力から出てきた言葉である。僕はこれよりは《異議申し立て》という言葉の方がよいと思う。権力の行使や決定のみならず、その構成に異議を申し立て、それを絶えず開いて行く行動である。

 1960年代から1970年代の僕らの行動を国家との関係で総括する試みをやっているときに思いついたのであるが、1960年安保闘争も、1960年代の諸闘争も《革命的暴力》ではなく《異議申し立て》として理解したほうが実情に合っていると思う。

 こういう観点に立てば、「10・8時代」のヘルメットやゲバ棒で武装したことを、国家の権力奪取に向けての闘争として位置づけることは誤りである。こういう行動を国家との暴力的対抗として理念化したことは誤りであり、後の赤軍派的な武装闘争論を生みだすことに連なった。主観的願望としてあつたということは別にしてだ。



 ここで言われている《異議申し立て》とは、私(たち)が用いてきた「抵抗権行使行動」あるいは「非暴力直接行動」さらには「市民的不服従」などと別物ではないだろう。このとき、行動の主体は組織(党、党派)ではなく、あくまでも「大衆」でなければならない。そしてこれは、「制度的言葉(外側の言葉)」から「個々人の表出意識(実践的意識)の発語(内側の言葉)」を奪還する道筋でもあると言えよう。

 現存の国家(ブルジョア国家)をプロレタリアート(労働者階級)の独裁国家に変えること、それも暴力的な権力奪取としてそれは実現するという政治的言葉は古典的である。そういう古典左翼的な政治的言葉は意味がないし、死語というべきである。

 だが、1960年代から1970年代にかけてはこの言葉は政治的言葉として流通していた。左翼的な関係のなかではその圏外にでるのは困難だった。

(中略)

 革命的暴力論という観点で10・8以降の闘争形態を位置づけることは間違いであった。暴力革命の基盤も現実性もないところで存在づけたことが矛盾であった。それは空想的な軍事論や武装闘争論という政治的言葉だけが一人歩きした理由である。

 あの時代、国家に対して武装闘争をめざしたということを今も主張する人はいる。そして、僕の《異議申し立て》というのを誤解したがる連中もいる。主観的願望としてそういう夢想をしていたというのはいい。致し方ないというべきだろう。しかし、本当に武装や暴力を考えていたのなら、それはどういうこととしてイメージしていたかを言わなければ無意味だ。あの当時のレーニン的な国家に依存し、そういう政治的言葉を信じていたというなら、それだけのことではないか。いまでもレーニン的な国家論を信じているのなら僕と考えが違うというほかない。

 警官と暴力的に衝突すること、ゲバ棒などで武装するようなことは異議申し立てでも展開される。火炎瓶やゲバ棒くらい持つ闘争はどこでもある。

 武装闘争というのは国家の暴力的な打倒をめざす闘争である。そういう理念に導かれた闘争である。火炎瓶やゲバ棒程度で武装闘争というのはおかしいとも言える。武装という言葉にどういうイメージや理念があるかであって、それのないところで今さらのように言葉遊びをしても意味はない。

 大事なことは闘争の現象形態ではなく、何をめざした闘争かということである。国家や権力の在り方に対する異議申し立ては、無意識ではあるが国家の構成の転換の要求をふくんでいる。国家権力の暴力的打倒や暴力的対抗ではなく、国家の構成を変えようということなのだ。これは先進国での国家(政治)の課題の歴史的な基盤そのものの現在に対応しているのである。



スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1189-4f35a845
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック