2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(77)

『独立左翼論』を読む(13)


 10・8羽田闘争の闘争形態は佐世保・王子・成田・新宿などでの政治闘争へと広がって行った。そしてそれは、東大全共闘や日大全共闘などの大学占拠のバリケードとともあいまって、急進的な学生闘争の高揚期を生み出した。

 しかし、この一連の闘争をどう評価するかという運動への思想的理解において、60安保闘争のときと同様な本質的な対立があった。ここでの対立もマルクス主義的な政治理念に基づく理解とそれに批判的な見解との対立であった。マルクス主義的な政治理念に基づく理解では、これらの闘争は国家権力の奪取を目指す行動、あるいは国家権力という暴力装置に対抗する暴力と言う評価になる。三上さんはこの「マルクス主義の言葉」による見解に批判的な立場を採っていた。

 当時さかんに使われた言葉として「10・8時代」の終わりというのがある。・・・・・・「10・8時代」の終わりとはこうした闘争が限界に達していたことである。これは闘争の行き詰まりということでもあった。こういう限界状況を現場の活動家や諸個人は感性的には認識していた。

 こういう現実を直視する能力を当時の政治集団や政治組織の指導部は欠如させていた。というより急進的であることを競う党派意識が、現実を認識させることを阻んでいたとも言える。政治党派や指導部はこのときこそ「10・8時代の終わり」の意味の認識を必要としていた。

 そもそも10・8時代といわれた闘争を自分たちが切り開いたと自惚れていた政治党派や指導部は本当のところが何も分かっていなかった。必要な認識というより、とんでもない思い違いをしていたのである。



 第2次ブントは1969年から1970年にかけてどう対応すべきかで分裂し、解体して行った。その分裂・解体は、第1次ブントが東大意見書をきっかけに分裂していったときと、その構造を同じくしていた。

 東大意見書は、ブントが情勢分析を誤らず、本格的な闘争の準備をしていたら、1960年の6月15日から6月18日に内乱的な政治危機を生みだせたというものだった。

 第2次ブントでは、この東大意見書に当たるのが赤軍派の主張であった。赤軍派は、「素手」や「角材」からより本格的な武装部隊を用意すれば、後退局面を突破し革命的高揚期を可能にするというものであった。

 第1次ブントの東大意見書も、第2次ブントの赤軍派も、より急進的な方針を出せば敗北状況が超えられるとしていた点で共通していた。

 この急進的な方針は活動家たちの願望を代表しているところがあった。東大意見書が活動家たちの心情をとらえたように、赤軍派も活動家たちの共感を獲得していた。赤軍派として登場したときの喝采はそれをあらわしている。

 ここで根本的に問われていたのは1960年の6月15日の行動(国会占拠という急進的な大衆行動)は、当時の伝説でいわれていたような「抜刀隊三千人」の行動と結び付く(接続する)かどうかにあった。仮に三千人が用意されたとしてである。つまり、単純にいえば、6月15日の行動は、6月18日により本格的な闘争になったか、どうかである。行動の質としてその発展形態が考えられたかということである。僕はそういうことを空想した。多くの活動家たちも空想した。自衛隊が出てきて、より本格的な闘争になったかも知れないと思ったり考えたりした。

 東大意見書は、政治集団の決意と準備があれば、内乱状態に近づくような政治的危機を生み出せたという考えにあった。この想像を支えているのは、安保闘争の急進的な大衆行動を国家への対抗的暴力として認識していることである。国家との暴力闘争としてそれは連続すると考えられていたのである。マルクス主義の政治理念から分析し、解釈すればそうなる。

 そこには簡単に連続しない質の差異が存在したのではないか。6月15日を頂点とする1960年の大衆行動は、東大意見書が想像するような内乱状態を生み出す行動に簡単に接続しなかったのではないか。当時の自分を行動者として内観するときそう言えると思う。

 1960年安保闘争の学生たちの急進的行動は左翼思想の武装闘争の観念(願望も含めて)では理解しえない表出意識の総和としてあったのではないか。そして、それを理解できなかったという意味では、日本共産党もブントもさして違いはなかった。

 それらはマルクス主義で想定されていたような内乱に発展もしなければ、ゼロでもなかった。そういう言葉ではとらえられないものだった。ブントはそれを無意識に実現したが、理解しえてはいなかったことを東大意見書は暴露してしまったのである。

 同じように、10・8以降のゲバルト闘争も、赤軍派が想定していたような武装や軍事に連続し発展する可能性を内包していたのか、どうか。つまり、国家権力への対抗的暴力ということでは包括できない質的な差異を有していたのではないか。

 闘争形態や戦術形態ということを超えて、国家に対する行動としてそこには質的な差異が存在していた。これは1960年安保闘争の大衆的行動や1960年代後半のゲバルト闘争を暴力革命というマルクス主義的な理念で理解し認識することと、その現実的性格の間に横たわる錯誤の問題である。

 僕はこれらの行動はまったく別の思想的な析出を必要としているように思った。学生たちの行動を支えていた表出意識はこうした言葉とは別のものだったのだ。



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