2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(74)

『独立左翼論』を読む(10)


 「SECT No6」のほかに、関西にもブントの思想と行動を継承しようとしたグループがあった。共産同関西地方委員会である。三上さんはこのグループが提唱した「政治過程論」に触れている。

 むかし関西ブントが提起した「政治過程論」というのが存在した。これは政治過程を独自の構造として取り出そうとしたものであり、優れた見解であった。着目点はよかったのである。しかし、意志(幻想)論がなかつたから革命理論としては発展しなかった。


 マルクス主義の大きな欠陥の一つは「意志論の欠如」である。「意志論」とはなにか。これについてはいずれ取り上げようと思っているが、いまは関西ブントのことを書きとめておこう。(以下は『新左翼運動全史』による。)

 1961年2月26日、京都で「共産主義者同盟全国労働者細胞代表者会議」が開催されている。参加メンバ―は、プロ通、革通、南部、西部、関西、九州、名古屋の各地区地方市委員会など70余名(学生半数)であった。戦旗派も参加したが、すでに革共同全国委との組織的統一を決定していたという理由で、立場表明を許されただけで退席させられている。

 労細代では、党内闘争の総括を行い、連絡会議の代表4名を決定し、3月を目標に同盟六回大会開催を申し合わせたが、反戦旗派=反革共同という点では一致したものの、総括内容ではなんら一致点を見出すことができず、六回大会を待たずに立消えとなり、混迷と挫折の根深さを露呈した。

 しかし、共産同関西地方委員会は第一次ブント崩壊以後も、関西社学同として自立化し、いわゆる「政治過程論」といわれた独自の安保闘争総括によって、関西地方における革命的左翼のヘゲモニーを引き続いて堅持していった。

 この政治過程論は、61年7月全学連第17回大会における京都府学連執行部の議案として執筆されたものである。その論の内容を、蔵田さんは次のように要約している。

 内容は、基本的にブント主義の継承、深化だった。すなわち、政治過程論は、小ブル学生運動の歴史的、階級的役割と性格を、その過渡性において正当に位置づけて評価し、運動の高次化、階級意識の高次化を運動論的に論理化し、安保闘争を総括したものである。

 だから、彼らは安保闘争を経済決定論的ドグマからではなく、政治過程の独自性から分析し、それを「予想外の大闘争」と総括した。そして「プチブルの街頭闘争と部分的な労働者の実力行使によって内閣危機が出現」したが、その反面では「内閣打倒→議会解散→総選挙という議会コース」が戦後の平和と民主主義意識=戦後デモクラシーに媒介されて反転力をつよめていった、という事実に着目し、この点に戦後学生運動の限界があったと主張した。

 また、運動におけるこの小ブル主義的限界性を突破するものとして「革命的戦術」を位置づけ、この「小戦術と大戦術」の連結性として貫徹されるべき革命的戦術は、必然的に国家権力との重大な対決へと発展していかざるをえないと主張し、「徹底した民主主義→二重権力状態」の創出を展望した。

 国家論、政治権力の構造分析などは一般論であり、粗雑さを否めなかったとはいえ、この政治過程論にある基本的視点は、のちに発表された「第三期学生運動論」や関西ブントのその後の根本路線となって継承されていった。



 関西社学同は、60年安保闘争の挫折のなかで唯一その動員力を維持し続けていき、ときには60年安保闘争を上まわる戦闘力を発揮し、府学連を領導していった。そしてそれが、第二次ブント再建の動因力となった。

 しかし、第二次ブント再建までにはなお数年にわたる「血のにじむような混迷と果てしない分裂」が続いた。第二次ブント再建は1966年9月1日のことである。

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