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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(73)

『独立左翼論』を読む(9) /BIG>


 ブントが体現した独立左翼的な運動と思想は、いわゆる新左翼に受け継がれたが、マルクス主義批判の点で質的に大きな幅があった。その違いを三上さんは次のように論じている。
 より具体的にいえば、ソ連や中国のマルクス主義をスターリン主義批判としてやるのか、もつと大きな幅のロシアマルクス主義批判としてやるのかの差異である。

 前者はスターリン(スターリン主義)はダメであるが、レーニンやトロッキーは正しいとするものであるが、後者ではエンゲルスを起源とし、レーニンやトロツキーによって発展させられてきた《ロシアマルクス主義》は普遍性を持たないとするものであった。

 スターリン主義批判によってマルクス主義の再生ができれば現在への批判的思想は構築できるとするのが前者であった。これに対してスターリンのみならずレーニンやトロツキーも含めたロシアマルクス主義は批判的思想として有効ではないと考えるのが後者だった。

 新左翼はこの二つの思想を混在させていたが、この二つは全く別の系譜の革命思想であった。スターリン主義批判でソ連批判は解決されるという思想はレーニンやトロツキーの系譜の革命思想の展開を志向した。マルクス主義の原理的な再生と発展である。エンゲルスからレーニンへと発展してきたマルクス主義をロシアマルクス主義として否定する者は、ヘーゲルとマルクスを起源とする別の革命思想の系譜の模索を考えたのである。

 通俗的に言われてきたマルクス・レーニン主義はここでは切断されている。新左翼運動は前者の立場にしか立てないことで、ソビエトの崩壊の中でともに自滅して行っているが、後者はこれを予言しているおもむきすらある。

 ソ連批判をスターリン主義批判の枠にとどめ、ロシアマルクス主義批判にまで深められなかったのは新左翼の欠陥であり、これは1960年代の後半に露呈する。

 今、思えばソ連批判からはじまった独立左翼の立場はロシアマルクス主義の批判によって、独自の系譜の革命思想を進展させるしか道はなかった。このことを1960年の段階で自覚し、その展開を準備していたのは吉本隆明だけであった。



 新左翼の中では「SECT No.6」というグループだけが例外であったという。このグループは中央大学の社会主義学生同盟の学生たちを中心に構成されていた。マルクス主義の思想的な権威から解放され、マルクス主義に対して最も自由な立場を取り、マルクス主義の左翼反対派的な限界を思想的に理解していた。ロシアマルクス主義的な世界観や歴史観から自由になることで、ロシアマルクス主義とは別の系譜の革命思想(批判的思想)を模索していた。「これは明らかに吉本隆明から受けた影響であった。」と三上さんは言っている。しかし、その模索は「それを吉本隆明のようにヘーゲル・マルクスの系譜の、というようにははっきりさせられなかった。」

 吉本さんはこのグループについて『「SECT6」について』(「詩的乾坤」所収)という文章を書き残している。ブント解体後の左翼思想の混迷と頽廃の様子も描かれていて興味深い。その前半部分を掲載しよう。

 60年安保闘争の終息のあと、真向うから襲ってきたのは、政治運動の退潮と解体と変質の過程であった。この闘争を主導的に闘った共産主義者同盟は、この退潮の過程で、分裂をはじめ、分裂闘争の進行してゆくなかで、その主要な部分は、革共同に転身し吸収されていった。

 この間の理論的な対立と分岐点については、あまり詳かではないし、ほとんど、わたしなどの関心の外にあったといつてよい。ただ、あれよ、あれよというあいだに、指導部の革共同への転身がおこなわれたという印象だけが、鮮やかに残っている。

 この間に、指導部からいわば置き去りにされた学生大衆組織としての社会主義学生同盟にはいくつかの再建の動きがあり、まことにおっくうな身体で、それらの会合に附き合ったことを記憶している。

 わたしのかんがえ方では、社会的には楽天的な評価が横行しているのに、主体的には、ほとんど崩壊にさらされている学生大衆組織に、もし内在的な逆転の契機があるならば、<嘘を真に>としてでも、社会的評価とのバランスがとれるまで、支えるべきであるとおもわれた。しかし、これは甘い、ほとんど不可能に近いものであることをいやおうなしに思い知らされた。

 安保闘争に全身でかかわった学生大衆は、この間に上部との脈絡を絶たれて、ほとんどなす術を知らず、指導部と同じくマルクス主義学生同盟に移行する部分と、個にまで解体してゆく部分と、共産党の下部組織に融著してゆく部分とにわかれた。

 こういう外部的な表現は、あまり意味をなさないかもしれない。別の云い方をすれば、指導部の転身と分裂によって方途を失った社会主義学生同盟は、政治過程の遙か下方にある暗黒の帯域で、それぞれの暗中模索の過程に入つたというべきなのかもしれない。

 当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は<もの書き>として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャ―ナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。

 公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。

 この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にまたできないと思い定めよ、という者え方を少しずつ形成していったとおもう。

 わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。

 わたしは、これに対しても激しく応戦した。ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである。それとともに、対立者をスパイ呼ばわりして葬ろうとするロシア・マルクス主義の習性を、わたしは絶対に信用しまいということも心に決めた。わたしは、それ以来、スパイ談義に花を咲かす文学者と政治運動家を心の底から軽蔑することにしている。

 後に、香山健一(現、未来学者)、竹内芳郎などが、わたしを「右翼と交わっている」と宣伝し、ことに竹内芳郎は雑誌『新日本文学』に麗々しく「公開状」なるものを書いた。わたしは、この連中が、どういうことを指そうとしているかが、直ぐに判ったが、同時にそれが虚像であることも知っていたので、ただ嘲笑するばかりであった。

 もっとも「新日本文学会」が竹内芳郎の「公開状」の内容に組織的責任を持つならば、公開論争などをとび越して、ブルジョワ法廷で、竹内芳郎および「新日本文学会」を告訴し、その正体を暴露してもいいと考えて注目していた。しかし「新日本文学会」は、その後の号の雑誌で、小林祥一郎署名で責任を回避した。わたしは竹内芳郎というホン訳文士などを相手にする気がないのですっかり調子抜けしてそのままになった。わたしは、たとえ百万人が評価しても、竹内芳郎や「新日本文学会」などを絶対に認めない。かれらが、いつどういうふうにデマゴギーをふりまくかを知ったので、その後、いっさい信用しないことにしている。

 これらの多角的に集中された、批難と誣告とは、ただひとつの共通点をもち、また共通の感性的、思想的な根拠をもっている。それは、どんな事態がやってきてもわたしが決して彼等の組織の同伴者などに、絶対にならないだろうということを、彼等が直観し、あるいは認識しているということである。そしてこの直観や認織は当っているといってよかった。そして、またこれこそが、誰れにも頼るなというわたしの安保体験の核心であった。

 ここで、わたしは、いつも衝きあたる問題に衝きあたる。退潮してゆく雪崩れのような<情況>の力は、ほとんど不可避的ともいうべき圧倒的な強さをもっているということであを。この退潮を防ぎとめる術がないという意味は、かつてわたしが戦争責任のようなものを提起したときに認識していたよりも、はるかに根底の深いもののようにおもわれる。抗することの不可能さといつてもよいくらいである。

 <情況>雪崩れに抗するということは、もちろんみせかけの言辞や、政治行動のラヂカルさということとはちがう。また、身を外らしてしまうことともちがう。比喩的な云い方をすれば、科学的な技術の発達が、政治体制の異同や権力の異同によって、抑しとどめることができない、というのと似ている。なぜそうなのか。それは、科学技術を支えている基礎的な推力が<そこに未知のことがあるから探求するのだ>といった内在的な無償性に支えられているように、<情況>の本質もまた、<そこに状況があるからそうなるのだ>という、自然的必然に根ざした面をもっているからである。

 個々人の<情況>についての意志の総和が、<情況>の物質力として具現する、という考え方は、たぶんちがっている。そして<情況>に抗うことの困難さ、不可避さということだけが、あとにのこされる。

(中略)

 おなじような<情況>のもとで、安保体験を経た中大杜学同のグループを中心に、「Sect6」を機関紙に、社学同再建の動きがはじめられた。わたしは、その内部的な動きを知らないし、組織化がどのように進められ、どのように展開されたかも知らない。むしろ、その意味では「Sect6」に結集した中大社学同グル―プとは私的に付き合っていたという方がよいかもしれない。

 この中心グループは、政治的には、谷川雁と大正行動隊の労働者の自立的な政治運動への越境から、多大の影響を受けたのではないかと推察する。わたしは、いくらか労働者の運動の実体を、それ以前に知っていたので、大正行動隊の活動に、それほど過大な実効性を認めていなかった。「Sect6」の中心グル―プが、大正行動隊と接触し連帯する志向性を示したとき、私的にはむしろわたしは、止め役だったとおもう。わたしの止め役の理由は、<労働者から学ぶものは、じぶんも労働者になるという位相以外のところでは、なにもない>ということであった。もちろん、わたしの<私語>は、「Sect6」の中心グループには通じなかったのではなかろうか。

 現在、残されている機関紙「Sect6」を読めば直ぐに判るが、このグループの政治意識には、わが国の左翼的な常識にくらべて、開明的なところがみられる。それとともに問題提起の仕方に学生運動を独自的な大衆運動として固有にとらえようとする態度が、かなり明確に打ち出されている。

 この態度は、学生運動を、政治党派の<学生部>の運動とみなしてきた既成の概念と、枠組が異なっているということができる。このことが組織体として有利に作用したかどうかは、まったくわからない。ただ萌芽としては、その後にジグザグのコ―スをとりながら行われた60年代の学生運動の問題意識は、ほとんどこのグル―プの問題意識のなかに含まれているといってよい。



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