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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(70)

『独立左翼論』を読む(6)


 第5回大会後、ブントは三派に分裂し、三つどもえの党内闘争を展開していくことになった。その三派の理論の違いについては今は立ち入らない。その帰趨についてだけまとめておく。

 大会後、東大細胞は組織体制の強化をはかり、9月26日に『革命の通達』を創刊した。このグループを「革通派」と呼んでいる。

 この「革通派」に反発して、「反東大連合フラク=労対グループ」が分派を形成していった。8月11日に初会合をもち、『戦旗』誌上で革通派批判を開始した。このグループを「戦旗派」と呼んでいる。

 上の2グループに対して、学連書記局細胞は中間主義的立場の分派を形成して、9月14日、『プロレタリア通信』復刊第一号を出す。このグループを「プロ通派」と呼んでいる。

 革通派は一時主導権を掌握するかに見えたが、池田内閣打倒ゼネストに失敗、さらに、10月8日の都学連第22回大会では、下部代議員多数派を獲得しながらも、執行部段階ではプロ通派に一票差で敗れ、大会は流会となって、大きく後退していった。とくに、池田内閣打倒闘争の敗北以後は方針と展望を全く失って実践的に破産し、61年に入って早々と解体した。

 革通派が破産した後、戦旗派も解体へ向かう。戦旗派は、共産同を全面的に否定し、その立場は革共同全国委員会と同じであった。戦旗派は革共同全国委のオルグを受け入れ、まず2月頃、革命的戦旗派が更に分派し革共同全国委への流れを作り出した。さらに3月7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、戦旗派の革共同全国委への合流が打ち出された。

 この頃、プロ通派も解散決議をし、多くが革共同全国委へ流れ込んでいった。戦旗派に続いてプロ通派も後追いしたことになる。

 戦旗派・プロ通派がなだれ込んでいった革共同全国委(黒田寛一)の体質について、「れんだいこ」さんは次のように言っている。

「ここで付言しておけば、黒寛と宮顕の論理には非常に共通したものがありますね。一言でいえば「排除の論理」です。言い回しが替えられておりますが、どちらも左派運動の発展には非常に有害な方向を指針させる同じ穴のムジナのように思います。この愛情の無さは、左派精神とは異質な白色系のものだと受け止めております。なぜ、このことを見抜けなかったのだろう。」

 さて、以上のような動向と革共同の思想について、三上さんは次のように論評している。

 革共同は古典的な革命像からブントや全学連の行動をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しつつ、他方でそれがスターリン主義を暴露したところに意味を与えていた。これは一方で伝統的左翼の枠組みというか、思考形態に支配されつつあったことを意味する。他方でブントや全学連の大衆運動として実現したものをスターリン主義批判として意味づけようとしたのである。

 東大細胞の意見書はより急進的な方針を準備していたらというものであるから、革共同のブランキズム批判とは対極にあるようにみえるが、古典的な革命像という枠組みに思考が呪縛されているという意味では共通しているのである。それほど、フランス革命からロシア革命にいたる中で形成された革命の像や理念は強力な影響力があったのである。レーニン的な前衛党の指導という理念は特にそうだったのである。

 革共同とブント諸派の差異はブントが実現した大衆運動の意味を、スターリン主義批判に見いだすのとそれを無意識的にだがもっと大きな歴史的なものとみるかにあった。意識的にはその歴史的意味が分からなかったということで共通している。ただブントは自ら解体することで、自己の実現した大衆運動の意味の理解は既存の左翼理念では理解不可能であることを告知した。ブント諸派はブントの実現した大衆運動の歴史的意味を無意識のうちに評価していた。

 それを除けば意見書を出した東大細胞のグループもプロ通派も前衛党が主体であるという伝統左翼の思考の中にあった。前衛党が主体ではなく、大衆運動こそが主体であるという独立左翼的な発想はどこにもなかった。革共同や「戦旗」派の一部に見られるような、ブントの大衆運動はプチブル急進主義だという批判に対して、反発する部分の中にブントの実現した大衆運動の意味を守ろうとする部分が存在したに過ぎなかった。

(中略)

 僕は革共同の欺瞞的な態度には怒りを持っていたが、批判は難しかった。労働者階級に基盤を持つ前衛党の建設というのは左翼的な正論であったからだ。それは古典的な左翼論理だった。

 確かに、僕はロシア革命をイメージした革命像を歴史的真理とすることに疑念を持っており、こういう正論にも疑いを持っていたから、それにやすやすといかれることはなかった。ロシア革命以来、歴史的な真理として流布されてきた革命のイメージや像に疑念を持ち、それを自覚すれば革共同のような共産党の原理主義的な修正にやすやすといかれはしない。が、それに代わる革命の像やイメージは未知の領野にあり、その分だけ自己主張することは難しかったのである。

 安保闘争でのブントの闘争をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しながら、それがスターリン主義の批判をやったところはいいということには胡散臭さと疑問を感じていた。僕らが安保闘争を通して実現しつつあるものは、ロシア革命の像やイメージとは別の革命(高度資本主義下での革命)という未知の世界を切り開いていくものであって、それをスターリン主義批判という狭い思想に矮小化してもらいたくなかった。



 「革共同の欺瞞的な態度」については、吉本隆明さんも次のように批判している。

「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである。」(『擬制の終焉』)

 これを引用して、三上さんは言う。

 これは1960年のブントの実現した大衆運動を起源とする運動が論理を獲得したことを意味する。その端緒に立ったのである。かつてのブントや全学連の指導部にいた連中が、革共同に移行するか、いなくなるかの中で、僕らは中央的な政治集団なしで闘いを持続するしかなかった。前衛的な政治集団としてではなく、せいぜいのところ大学単位の左翼グループとして安保闘争後の歩みを始めるが、吉本さんがこのころ書かれた論文は強い援護の役割を果たした。



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