2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(69)

『独立左翼論』を読む(5)


 島書記長は『「ブンド中央批判」をそのまま提示して大衆討議に委ねる』という方針でブント第5回大会に臨んだ。

 大会冒頭、東大本郷細胞が一枚のビラ(意見書)を配布した。その意見書の見出しには「くりかえされ深められた中央指導部の解体、革命的街頭デモの否定、問題をえぐりだすことによって同盟の官僚的固定化を防げ!」とあった。その意見書の要旨を、三上さんは次のように書きとめている。

 東大細胞の意見書は1960年の4月の4回大会でブント中央が情勢分析を誤らなければ「政治的危機を革命情勢」に転化できたというものであった。これは安保闘争で革命情勢が切り開かれるという展望の下で政治的準備(より本格的な武装闘争など)をすれば、6月15日で生み出した闘争の高揚を政権の打倒なりに転化できたというものであった。

 これは当時の活動家の願望をまとめた典型的な作文であった。ブントが革命党(前衛党)としての政治的準備をおこたらなければ6月15日の政治危機を有効に生かした闘争を6月18日の過程で実現できたとするものである。



 東大細胞は、引き続いて大会席上で独自の総括を展開し、本格的な党内闘争の口火を切った。また、大会では旧日共港地区委を中心にした南部地区委が、政治局批判を展開した。「5回大会以前の同盟政治局の一切の路線を全面的に否定する立場にたち、旧政治局を打倒することこそ同盟再建の鍵である」と強調した。

 結局、大会は第6回大会の開催を確認し、大会準備委員を選出しただけで二日間にわたる重苦しい討論の幕を閉じ、同盟政治局の解体、党内闘争へと突入することになった。

 東大細胞の意見書について、後に島さんは『ブンド私史』で次のように述べている。

「私は中央批判が続出することは予知し、ある意味では期待もしていたのだが、こともあろうに安保闘争の期間中どの段階でも状況とチグバグな日和見主義で足をひっぱり続けた東大細胞の連中が批判者の中心になったのには呆れはてた。しかもいうことには、あの6・18のクライマックスでブンドが何もなしえなかったのはブンド中央が4回大会で情勢分析を誤ったためで、そのために政治的危機を革命情勢に転化することができなかったというのだ。馬鹿も休み休みいえ! いつも肝腎の山場で大衆から浮いてしまうといって日和見、情勢を一歩一歩きりひらいていくブントの方針に反対し、最後の土壇場まで行動の一致を妨げていた奴が何をいうか、怒りは頭のてっぺんまで上がった。しかも、その尻馬に全学連の書記局が乗ったのだ」

 三上さんは、その意見書を「願望をまとめた典型的な作文」と書いているが、それを「作文」と呼ぶ所以を次のように論じ、そこに表明されている思想的誤謬(独立左翼的思想からの後退)を指摘している。

 僕がこれを作文というのは一活動家の目からみても、ブントは6月15日が精一杯であったと判断しえるからである。そして膨大に参加者の増えた6月18日に何かができたというのは錯覚である。

 島成郎は東大細胞の意見書の内容というより、意見書の提出者が重要な場面で日和見をくり返してきたことを怒っているが、そのことは島の誤りではないが限界を示していた。多分、島の怒りは空想的な作文など出しおって、ということであり、この怒りは正当だった。だが、お前らはそんなことをいう資格があるかという批判以上を出ず、それを空想的な作文として批判する明晰な論理を提起できなかったことは限界であった。

 島成郎と東大細胞の意見書として現れた対立は当時の活動家たちの二重の意識に根拠がある。つまりブントがともかく6月15日から6月18日までの闘争をやり抜いたという一種の達成感と6月18日に何もできなかったという敗北感である。

 敗北感を願望にして提出したのが東大意見書であるとすれば、島の批判のなかには安保闘争や4月以降の闘いでは相対的には自分が一番正しい路線を提出してきたということがある。これは達成感を代表するものといってよかった。ブントはこの二つの見解が対立する中で解体していくが、これは誰も、戦後史の中で安保闘争の意味を析出するだけの思想的力を持っていなかったことを意味する。特に全学連の主流派が展開した大衆的な運動の歴史的意味を明らかにする思想がなかったのである。この矛盾的な意識そのものを歴史的な意識として対象化するだけの思想がなかったのである。

 安保闘争の中で誰もが感じていたのはどんなに激しい闘争を展開しても結局のところ、政策阻止や政権担当者の交替くらいをできることが精一杯であるということであった。その闘争はどんなに激しく展開しても、権力奪取や権力の獲得などという事態には程遠いものであった。僕らは何物かにせつかれでもするように急進的な行動を展開したが、それを権力奪取などの革命闘争というには醒めさせられていた。デモの中で「ああ革命は近づけり」という歌などは歌ったにしても、そういう意識にはとうていなれなかったのである。

 僕らの行動が「革命」というイメージや理念に直結するという意味では、それはあらかじめ不可能が予測されたのであり、敗北ははじめから分かっていたことのように思う。僕は大学一年生であり、さして左翼運動のことも革命運動のことも知っているわけではなかった。けれども、そういうことは何となく理解していたのである。(中略)僕らが素手とスクラムで国会構内に突入するということと武器をも持つ本格的な闘争とには大きな壁のあることは何となく分かっていたのである。

(中略)

 ブントは伝統的な前衛党として、つまり主体として大衆運動を指導したのでなく、ブントは必要な政治的機能を果たしたに過ぎなかった。日本の政治運動の中で、前衛党が主体ではなく、大衆が主体として立ち現れてくるという運動を初めて実現したのである。そこにブントの意味はあった。これはブントが意識的に実現したというよりは、無意識のうちに実現したものである。

 なるほど、ブントも日本共産党などのような組織形式をとり、政治的役割を演じようとした。だが、ブントは大衆主体の運動に依拠せざるをえなかった。そして、そのことにおいて新しい大衆運動の様式を生み出したのである。1960年の6月15日はその実現であり、そこに僕らの希望はあった。僕はこれをブントが生み出した独立左翼の大衆運動というのだが、それは伝統左翼とちがって運動の主体が大衆にあるということである。

 多分、島成郎が安保闘争において、4月以降の闘争において自分が相対的に最も正しかったというとき、彼は直観的にブントの実現したものを理解していたのである。

 それならば東大細胞の意見書とは何だったのか。それは6月15日が安保闘争の限界であることを知りつつ、6月18日に何かをやりたかつたというブント同盟員の願望を現していたことは間違いないとしても、彼らは無意識のうちに伝統左翼の大衆運動観に戻っていた。それは主体は党(前衛党)であり、そこが何か方針を出せば何とかなったという考えである。急進的な方針を考えているということにおいて、日本共産党とは違うがその思考形態は同じだったのである。

 ブントと共産党との差異は急進的な運動を展開したか、いなかにあったのではない。それは歴史的な無意識によつたにせよ、構造として異なる大衆運動を実現したことに存在した。東大細胞の意見書にはこの構造の理解が欠落していたのである。



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