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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(67)

『独立左翼論』を読む(3)


 ブントが内包していた矛盾は、独立左翼的な思想と新左翼的な思想との混融であった。その矛盾が、その後、新左翼的な思想の侵食と言う形で、大きな矛盾となって発現していった。

 三上さんは「新左翼」と「独立左翼」をはっきり区別して使っている。その違いは論を進めるに従って、より鮮明になっていくと思われるが、差し当たって三上さんは「新左翼的なもの」を「旧左翼(マルクス主義)に対する左翼反対派的なもの」であり、「マルクス主義の枠を守りながらそのルネサンスをめざすものもここに入る」と述べている。

 三上さんは自らが行ってきた思想的営為の中心課題について、次のように述べている。

 僕は新左翼的なものから分離した形で独立左翼的なものを思想的に析出しようとしてきた。安保闘争やブントの存在に戻りつつその作業を行なってきたが、そこにはさまざまの困難が存在した。

 その中心問題は国家、あるいは国家権力についての考えであった。

 その作業は時代の行動的ラディカリズムを暴力革命の概念と分離して思想的に析出できるかどうかというところに行き着いた。国家も国家権力も過渡的な存在だが、それとどう関係すればいいのかというとき、この間題は現在の問題に連なる。テロリズムである。

 現在のテロリズムを否定する道は、暴力革命の概念の、その根底をなす権力概念の否定としてのみ可能である。



 さて、三上さんは論述の発端として、60安保闘争を中心で担っていた二人の人の、闘争について述べたとされる言葉を取り上げている。

 一つは、60年安保闘争での理論的指導者であった姫岡玲治(青木昌彦)の「あの闘争が何であったかよくわからなかった」という述懐である。三上さんはこの言葉を「記憶」の中から取り出しているが、調べてみたら、この言葉は島成郎への追悼文の中にあった。

「あの(安保闘争の)写真集をみていると、やはり安保闘争は20世紀の日本の歴史の中でも希有な出来事だったのだ、と実感されました。だが、安保闘争が、歴史の中でどういう意味をもっていたのかということになると今もって僕にはよくわからないところがあります。」

 二つ目は、島成郎とともにブントの組織的な指導者であった生田浩二が語ったとされる「ブントもだめだった」という言葉である。三上さんは「伝説的な言葉」と言っているが、この言葉は、安保条約が自然成立した時(1960年6月18日)のデモの様子を描写した島成郎の文章(「生田夫妻追悼記念文集」)の中にあった。

「日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田・・・」

 僕はブントという安保闘争を指導した組織の中心にあった彼らの言葉に注目したいと思う。

 安保闘争が何であったかよくわからないということと、ブントもだめだったというのは同じではないが、それは安保闘争としてあった全学連主流派の闘争を内在的に理解していないということ、それを誤読していたこととしてある。これはブントが五回大会で安保闘争の総括をめぐって崩壊して行く要因になった。

 この安保闘争の理解はそれを乗り越えることを目標としたその後の闘争にも重大な影響を与えた。安保闘争やブントの存在の正確な理解の基盤のないところで、乗り越えを目標としてもそれ自身がおかしな道にふみこむことは当然のこととしてある。

 赤軍派や蜂起戦争派という1969年以降の運動はかつてのブントを乗り越えようとしたのだが、これが赤色テロリズムにしかならなかったのは60年安保闘争の正確な理解を欠如させたうえで目標を設定したからである。

 生田浩二の伝説的な言葉は、島成郎が「三千人の抜刀隊がいれば」と語つたとされるもう一つの伝説と重なりあうのであるが、それは1960年の安保闘争に対する願望も含めた誤読からきていたと思えてならない。



 「三千人の抜刀隊がいれば」という言葉の出所は、ブントの第4回大会での島成郎の演説だろうか。その演説では、「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」等の言葉が発せられたと伝えられている。

 結論的に言えば、6月15日に国会構内に突入し、占拠した段階から6月18日闘争の過程でより急進的な蜂起(武装闘争)がイメージされていて、そこから見れば何もできなかったということである。それならば、6月15日までの急進闘争が、こういう武装闘争と接続(連続)する質をもっていたか、ということがある。

 島はどこかで、「何を目標に闘つたか」と質問されて、あの闘争は革命とはむすびつかないと思っていた(醒めていた)」と述べている。この認識は当時の活動家が直観的に理解していたことでもあった。ここから島はこれはフランス革命やロシア革命のような武装革命(蜂起)とは別(接続しない、連続しない)の思想的系譜に属する運動であり、別の意味での革命性を提起しているという理解にいたらなかったのだろうか。

 僕らは言葉(制度的言葉)はなかったけれどそういう直観(内的言葉)はあった。ここから6月15日への急進的行動を、ロシア革命などの歴史的な革命概念とは系譜を異にする革命的なものとして析出できていれば、全共闘運動やゲバ棒闘争も違った評価や認識が与えられたのだろうと思う。



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