2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(65)

『独立左翼論』を読む(1)


 まず、『独立左翼論』の著者・三上治(みかみおさむ)さんの経歴を概観してく。三上さんは60年安保闘争に参加してから1975年まで、政治活動を続けられていた。従って、その経歴を概観することは、60年~75年間の独立左翼の動向の一側面を知ることにもなるだろう。

 1959年の国会構内突入闘争の時、三上さんは郷里(三重県)にあって、高校三年生であった。全学連の国会構内突入のニュースを知った時のことを、三上さんは次のように振り返っている。 (例によって、読みやすくするための段落を設けている。)

 この行動に対して、神聖な国会を汚すものであり、民主主義を冒涜する行為だという非難の声が自民党やマスコミから浴びせられた。

 当時、高校三年生であった僕はこの事件からすごい衝撃を受けた。当初は新聞などの報道のままに、この行為を非民主的な行為と思っていた。何と無茶なことをするのだろうという素朴な反応である。

 高校生同士でこの事件について話合いをしたり、『朝日ジャーナル』などを読んだりしたりしているうちに僕のこの素朴な反応は変わっていった。いつの間にか、この行為を支持するようになって行ったのである。

 一緒に構内に入った、共産党や社会党は、世論の批判を恐れて、詫びを入れる状態になっていたが、全学連だけは袋だたきに合いながら頑張っていた。

 この事件の余波で、東大生の二人が駒場に籠城するという事件があったが、全学連は孤立しながら頑張っていた。僕は心情的に全学連のシンパに変わって行ったのである。

 もちろん、全学連がどんな主張を持ち、それを背後で指導していた共産主義者同盟(ブント)がどんな見解を有していたのかなどは知るよしもなかった。僕は一種の半官びいきで全学連を支持していた。だから、東京へ行って、学生運動をやるなら全学連の方に加わるとこころでは決めていたのである。



 翌年(1960年)、中央大学に入学した三上さんは、すぐに安保闘争に加わり、そのまま学生運動の活動家になっていった。

1962年
 再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。

1966年
 中央大学中退。
 第二次ブントに加わり、全共闘運動やベトナム反戦闘争にも加わる。

1969年
 ブント内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立する。
 4月28日の沖縄闘争で指名手配され、潜行しつつ活動していたが、9月に逮捕される。

1970年
 一旦保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に。この間、共産主義者同盟叛旗派をつくり、最高指導者となる。

1975年、叛旗派を辞め、政治的実践活動から退く。
 以後、執筆活動に専念する。

 政治活動から身を引いていった背景を、三上さんは次のように述べている。(『1970年代論』の前書きから)

 1969年に始まったやがて赤軍派の結成に至る部分との政治集団(共産主義者同盟)内部の党派闘争はさまざまの問題を提起していた。それらはまだ思想的には整理された形では析出されてはいない。

 僕はこの党派闘争の中から発生した赤軍派やそれに続く蜂起戦争派を1960年闘争を通して出てきた独立左翼的な思想と運動とは系譜を異にするものと位置づけた。この党派対立の根底には第一次ブントが内包していた初源の理想(左翼的理想)を維持するかどうかの思想的生命がかけられていたからだ。

 それは急進的な戦術という次元を超えたものだった。この点について特に暴力の問題を中心に僕の考えを展開した。これは現在の「テロリズム」の評価に連続していると思っている。僕にとって切実だったのは独立左翼的な初源の理想を保持するか、それを踏みにじっていくかだったが、その思いは今も変わらないで僕の中ではある。

 僕が保持したかったのは組織でも党派でもなく第一次ブントがちらりと示してみせた初源の理想だけだったからだ。理想を失った左翼や反権力思想には何の意味もない。



 三上さんが政治活動から身を引いていった背景にある最大の問題は「暴力の問題」だった。その問題について、もう一文、引用しておこう。(「宮崎学の叛乱者グラフィティ」から)

― 三上さんが叛旗派を解散することになった背景には何があったのか。

 闘争がだんだん、爆弾とかにエスカレートするでしょう。そうすると途端に大衆的支持を失う。そしてますます闘争手段は過激化する。そういう悪循環に入っていて、そこからもう抜け出せないと判断したからでしょう。その第一歩が赤軍派の発生でした。

― そういう認識があって、三上は全力をあげて中央大学の若い活動家たちを説得する。彼らは泣きながら「赤軍に行かせてくれ」と言い続けたが、三上は「絶対にだめだ」と説得するのだ。

 中大というのは戦闘的なグルーブでした。右派と言われるのは屈辱で、死んでもいいから左派と言われたいと思っていた。だから、「左派と言われなくてもいいではないか、それは後でわかることだから」と、ともかくも説得したのです。

―その状況を具体的にはどんなふうに分析していますか。

 67年から70年のゲバルトの意味というのは、俗にいう革命暴力ではないのです。異議申し立てという政治的意思の表現なんです。その新しさだったのです。だから、政治的意思を行動として表現する人が、自分でわかっていればいいです。体を張って見える形でやっている限りはよかったんです。自己で行動に対して責任を負う形だからです。

 それは、警備を強化してくるのに対して、その壁を突破するという対抗策であって、一種の自衛的な要素もあるわけだから、運動の境界線も見えてくる。だけど、これが爆弾とかテロリズムになったり、人を盾に取ったりした途端に大衆的な支持を失う。さらに、匿名の形になると腐敗する。行動は無責任になるんです。そこから退廃していきます。だからそれはだめと思っていました。

 だから、僕らは基本的には爆弾闘争はやらない、せいぜい言えば竹竿以上のものは持たないようにしよう、右派と言われてもいいんだ、このあたりが現実的な運動の境界なんだ、という考えがありましたね。



 さて、『独立左翼論』は「吉本隆明が語る戦後55年」(1巻~12巻)に断続的に連載されたもので、全部で7回の連載である。パラパラと眺めただけで、実はまだチャンと読んでいない。適切な判断かどうか、はなはだ頼りないのだが、60年安保闘争の総括という意味では最後の「7」が適切なようだ。それから読み始めることにする。

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