2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(62)

「死者の視野にあるもの」(3)


山崎博昭さんの死
 死は本来、死因の如何にかかわらず、悲しまれるべき性質をもつゆえに、死の日常化は、いつしか死の平均化を生み、やがてその圧倒的な量による反応麻痺が結果する。

 1967年、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争で山崎博昭が羽田の弁天橋で殺された時、その麻痺はすでに国民の感情を大きく蝕んでいて、悼みと憤激は、ごく一部の学生層と市民に限られた。

 数多くの企業で働く数多くの組合員たち、革新を名乗る政党は、事件を自分たちとは無関係のものとして受けとった。しかも、隠蔽作業は、樺美智子の際よりも一層、手がこんでいた。樺美智子のときは、まだ「人なだれによる圧殺」だったが、山崎博昭の死については、「学生による学生の虐殺」と報道されたのである。ある学生が装甲車をぶんどり、それを後退させて山崎博昭を轢殺したのだと。だが逮捕されたその学生は、十二分な宣伝効果をあげたのちに、検察庁側の起訴理由変更という法廷手続き上のミスを理由に裁判そのものが取りやめられ、全くうやむやのまま、こっそりと釈放されたのである。

 一体これはどういうことか。政治的立場がたとえ学生の反戦運動の進め方に批判的であっても、まともな法曹人なら、一斉に立ってその不明瞭な処置を糾弾すべきはずだった。松川事件をはじめ戦後の政治的な裁判事件を問題にした良心的な文化人たちが、不意に死んでしまったわけでない以上、一斉にその非を鳴らすべきだった。また実事求是を説き、報道の権利を主張するのなら、報道人もまた、うやむやになった過程そのものをでも執拗に報道すべきだった。だが、そうしたことは何もなされなかった。



由比忠之進さんの死
 同じ年の11月、佐藤首相のアメリカ訪問に抗議してエスぺランチストの由比忠之進が首相官邸前で焼身自殺を図り、数時間後、病院で死亡した。明治に生まれ大正時代に自我形成をとげたこの人が佐藤首相に与えた抗議文の中で静かに回顧している生涯の反省こそは、日本人のすべてが当然共有しておかねばならぬものであった。

 私が生まれたのは明治27年10月2日、……日露戦争の頃は小学校、その後中学校で忠君愛国の思想を吹き込まれて文字通り愛国者として生長しました。……

 私は東京高等工業学校を出て、二、三職業を変えたのち南満洲の新興紡績会社に勤め日本の膨脹を謳歌したものでした。大東亜戦争に入るやその緒戦の戦果にすっかり酔わされて有頂点になって大陸での生活が日本の侵略によるものとの反省を全く怠っていました。

 愈々敗戦と同時に不安のどん底に落され、困難な一年半を大連で過ごしましたが、やっと日本の中国侵略の罪悪に気づきました。

 ……敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供におよぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおりますので、此の一文を差しあげる次第です。……



 この人の経験とそれに基づく思索には、明治、大正、昭和の時代を生きた日本人の経験からとびはなれた異様さが何一つあるわけではない。市井の人としての体験のむしろ平均値といってよい体験であり、思索である。にもかかわらず、その意思の表明に、〈死諫〉という形態をとらざるをえないまでに、当然の人間的主張が通用しなくなっていたのである。

 かつて十年前は、国会への請願という形で行なわれた市民デモは、僅か7年の間に単独者の焼身による〈死諫〉へと転ぜねばならなかった。国会には高い柵がはりめぐらされて近づけず、民衆の意思は、幻想の中ですら上部に反映されることがない。平和を望む故に非暴力という限界を自らに課せざるを得ない者の、苦渋にみちた極限的な、最後の意思表示としての焼身自殺。もし、こうした意思表示をすら無視するのならば、そのあと民衆に残された道は、叛乱しかない。

 だが、木村官房長官の談話にもみられるように、返ってきた答えは、通り一遍の、もはや存在もしない民主主義の教科書的な御託宣でしかなかった。

「このような悲しむべき事件が起ったのはきわめて残念だ。由比氏が無事であることを祈っている。民主主義の本質はあくまでも論議をつくし、その結果については、選挙を通じて批判することにある。いかなる形にせよ、直接行動は避けねばならない」と。

 真に主権が民衆にあり、真に民主制が施行されているのなら、誰がかけがえのない自らの身を一つの政治的意見の開陳のために滅ぼすだろうか。少数意見を代表するはずの野党や言論機関がまったく体制内存在と化し、その隠微にして奴隷的な補完物と化しているのでなければ、非暴力主義者がこうした自己否定的行動に訴えることもない。



アメリカの従属国家日本のアポリア
 腐敗は、権力の悪が、他国の戦乱によって自らを富まし、実質上の殺人行為に加担していながら、名目的には平和憲法をもっているという欺瞞のゆえに、一層奥深く潜行する。かつてカミュは『反抗的人間』のなかで、

「今日、一切の行動は、直接か間接かに、殺人につながっている」

と言ったが、それは形而上学的憂悶としてではなく、日本政府のアメリカへの政治的、経済的従属とその理不尽なアジア政策の共犯関係によって間接的ながらも重い道徳的苦痛として私たちが担わせられている。

 特需産業は秘かにナパーム弾を造り銃器を作って輸出し、軍靴から衣服に及ぶ一切の軍事必需品生産の肩がわりと下請けによって肥えふとっている。だが、直接自分に禍が及ばねば、そしてまたそれが利潤を生むなら、何でも作り出す構造を許している以上は、アメリカの原子力船の入港によって、放射能をまき散らかされることにも文句は言えない窮地に追いこまれている。

 政府には少なくとも文句はいえないのである。いや、自らが抗議しないだけではなく、68年の佐世保闘争に見られるごとく、学生や労組員が原子力船寄港に反対することを、弾圧せざるを得ない論理的負目を負ってしまっている。



中村克己さんの死
学園闘争とはなんだったのか
 平和運動は、単に自国の安全を政治的に画策し、世界の平和を心情的に祈願するだけではなく、日本がはまり込んでしまっている共犯性のゆえに、みずから生きる場での、共犯拒否つまりは体制変革への志向をもつ反戦運動たらざるをえず、その運動は擬制的民主主義を崩壊せしめる直接行動性をもつべき必然性を、むしろ相手側からおしつけられている、といえるのだ。

 既成の革新勢力や進歩陣営が、敗戦20余年の経過のうちに骨がらみに体制に抱き込まれてしまい、一見改革的にみえる発言や提案が、批判する当の相手に寄生してお目こぼしによっており、人畜無害な添え物に堕してしまった、その根深い病根をえぐるために、そうした精神的欺瞞の牙城である大学で苦渋にみちた闘争がなされねばならなかった。

 だが、そうした準備的な意識変革すらが、強権に窒息させられ、その過程でも、犠牲者が出た。しかも悲しいことに、まっとうな討論や、自己の属する組織の制度改革によって返答しなかった教授陣は、自らは手を下さず、体育会系の学生や警察や裁判所の手を借りて、批判者たちを学園から排除した。

 70年2月、京王線の武蔵野台駅前で学園民主化を訴えるビラを散布していた日大生中村克己が、体育会系の学生に襲われて重傷を負い、数日後、病院で死去した事実は、権威にしがみつく権力附帯者たちの、保身の仕方を象徴的に示している。そして、その際も当局による死因表明は、「京王線の上り特急に接触したための、交通事故」であり「本人の不注意による自損行為である」というのだつた。

 日大闘争は、一体何の為に闘われたのか。学内において、文化的なクラブ活動や研究会活動など、思想や表現、結社の自由すらない状態、学生を無権利な商品としてしかあつかわず、しかも不正な経営を行なっている学園の構造をまず摘発し改変するためであった。

 そしてその学内の抑圧構造は日本の権力構造の部分であり、同じ法則が社会全体にも貫徹していることを学生たちは気付かざるを得なかったが、社会変革はともかく、理事者の刑事上の責任や教授層の教育責任も結局はとわれることなく、「暴力学生」のキャンペインのもとに、機動隊に蹴散らされ、そしてその闘いに参加していた一員、中村克己は、同じ大学の体育系の学生に襲撃されたのである。京大生山崎博昭が殺されたときに、「学生が学生を殺した」と宣伝しながらも、あまり人々に信用してもらえなかったミスをここで補おうとでもするかのように。



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