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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(61)

「死者の視野にあるもの」(2)


樺美智子さんの死
階級支配と抑圧の構造
 ここ10年、暦が1960年代から70年代に転換するにつれ、さまざまの変化がこの日本にあらわれたといわれる。所得倍増、GNP自由世界第二位、情報社会化……。

 たしかに政治、経済、社会風俗上にはさまざまの変化があったが、私たちの人間関係のあり方、その集約である支配被支配の関係にはなにほどの変化もなかった。いや、何らかの改変をも齎らしえなかったことは、私たち自身の咎でもあるが、悪いことには、私たちは徐々に生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させていっているように思える。

 10年前、日米安全保障条約の改訂に反対し、国会運営の非民主性に憤ったデモ隊が国会を包囲し、国会構内で抗議集会をもとうとして当時の全学連主流派が警官隊と衝突し、樺美智子さんが殺された時、人々は強く憤激したものだ。その憤激やショック、あるいは哀悼の情が、たとえただ感情の次元に止まったにせよ、広汎な層の人々がその感情を共有したし、その感情の背後には太平洋戦争で多くの犠牲者を出しその犠牲の上にやつと摑んだ生命尊重の国民的感覚がなお生きていた。人が殺し殺されるのは国家間の戦争によってだけではなく、国内の階級間の抗争においても起こりうるのである。悼みの感情がその冷厳な認識にまで達するのを恐れて、権力者は死因をうやむやにした。

 私たちが反戦運動の途上の死者たちの葬られざる死にこだわるのは、動かしえない死の事実の前には一見些細なことにみえる死因の隠蔽が、実はこの社会の支配の構造の隠蔽にストレートにつらなっているからである。だがその事は後にも触れるとして、ともあれ、当時、人々は若い生命の夭折を悼む人間的感覚をもっていたと思う。

 樺美智子の伝を担当した川口翠子によれば、その日、樺美智子は「ああ、いそがないとゼミにおくれる――」と母に言って家を出たという。そうした家族を心配させまいとするささやかな嘘を含めて、彼女が学生運動のきわだった存在であると同時に、ごく普通の人の子であったことが知れる。

 それだけでも、国民感情の基底に誤りなき生命尊重の念があれば、やがては一国内の階級抑圧が、普通の人の子の命を踏みくだいてゆく政治の実相に人々は気付くはずだった。だがほとんど当然とおもわれるその論理的経緯を、民衆の感情はたどらなかった。なぜなのか。



戦後処理の不徹底が残したもの
 いまその理由を後向きに解明してみても遅きに失するかもしれない。しかし、巧みな意識操縦は、私たちが戦後におかした失策とも相乗しつつ、現在もなお続いている以上は、やはりこだわらないではすまされない。

 簡単に言ってしまえばそれはこういうことである。ことは実は敗戦処理の問題にさかのぼる。90余にのぼる主要都市が廃墟に帰し、何百万の将兵の死傷の後に、他律的なものながらやつと旧秩序の支配をまぬがれた国民には、大ざっぱに言って、為さねばならぬ二つの仕事があった。

 一つは、瓦解させられた自分たちの生活の再建、飢餓線上をさまよう窮迫からの脱出であり、いま一つは自らに塗炭の苦しみを舐めさすにいたった原因の徹底的な追及、反省、そしてその体制上、意識上の仕組の根本からの除去であった。それは本来は車の両輪のように相補的な作業であるべきであって、どちらを選択するかという選言命題ではなかった。

 しかし、どちらかと言えば、焦眉の急である生活の復興、日常性の再建の方に比重がかかって、戦争原因の徹底的除去の方は、あとまわしにされたきらいがあった。考えてみれば、そうなったことには、寛恕すべき理由もあって、何はともあれ人々は日々食わねばならなかったし、また正当化しえぬ戦争へのそれぞれの人の何ほどかの加担という心理的苦渋のゆえに、理念上の作業はともかく食えるようになってから……と思ったとしてもやむをえなかった。

 むろん戦争責任の追究と芟除(さんじょ)をまったく怠ったわけではなかつたが、その場合、耳目に入りやすい被害と加害を単純に分離する論理が採用され、社会や経済の機構との深いかかわりが問われることなく軍部が悪玉にされた。しかもその原因追究の作業を庶民の日々のいとなみから切り離して一部のインテリの机上の論議にゆだねるという傾向が支配的であったことは否定できない。

 そして人々は驚くべき勤勉さでやみくもに働いたのである。廃墟に一軒一軒家が建ってゆくことを、それが自分の家でなくとも慶賀しあうといった心やさしき心情のもとに。

 10年前の安保改訂期は、敗戦以来のがむしゃらな勤労が、ある程度の生活の安定に結実して、その心理的余裕の下に、しかしふと気付いてみると、もう一つやつておかねばならなかったことをおろそかにした、ある後めたい覚醒の時期にあたっていた。

 なるほど、自分たちは他国の内政に露骨に干渉するようなことは、戦後は、してはいない。しかし、戦争責任を負うべき勢力が、依然として強力な存在として生き残っており、しかも自分たちが委任したわけでもない重大な国家方針の選択にも、国民の総意を問おうとはしていない。根本的な制度変革であったはずの民主主義が単純な頭数の論理にすえかえられており、しかもその議会内多数派はなにも選挙をせずとも力をもつ特定階級の代弁者にすぎない。

 60年安保闘争の底辺にあった疑念は、そうしたむしろ単純なものであったと言ってよいが、単純であるゆえにこそ、根本問題に触れており、――そのゆえにこそ、抗議デモの中の一人の死は、権力者の側にとつても重大だった。

 一たび血に汚れていた手、それが再び人々の眼前で血で汚れたのであり、人々が、かつての他国の民衆の殺戮と、現在の同胞の流血との間に必然的な連関のあることに気付けば、それは当然、体制そのものの疑惑へと進展する。退陣した岸内閣のあとを受けた池田首相が、なぜ、狂気のように所得倍増論を宣伝したか。理由は明白であって、戦後の課題のもう一つの項に、おくればせながらも人々の注意がおもむくことを、懸命にふせぐためだった。



マス・メディアの劣化
生命尊重感情の麻痺
 本来関連してあるべきものを切りはなし、一方だけを強調して他方を隠蔽する。新聞、テレビをはじめ情報伝達機関は急速巧妙に統制され、樺美智子の死因も「デモ隊の人なだれの下敷となり、胸部を圧迫されて窒息死したもの」とされた。混乱時の、責任非在的な災難。そう印象づけねば、政府が最も恐れる事態の発火点にそれはなりかねなかったのである。

 そしてその際のマス・メディアの大旋回と屈服は戦後に孕まれていた可能性の自己虐殺に等しいものだった。以後マス・コミの果たす役割は、戦争中の大本営発表の受け売りに等しいものとなる。

 そして、計算ずくか、制度の好智か、恐ろしいことが、その後に進行した。たとえ、事柄の因果関係を一時的に隠蔽することに成功したとしても、国民の胸裡に、生命の尊重という反戦平和の基盤が生きつづけておれば、第二第三の同様の事件の際に、盲目の感情が論理とつらなり、体制への疑惑がその否定と拒否につらなる可能性がある。だが、その人間としての基本的な感情と思われる基盤そのものがつき崩されてゆくのである。

 たとえば所得倍増は、巷に自動車の氾濫を生み出し、そして、何分かに何人の割合で人が死ぬことが当り前になり、謂わば死それ自体が日常化されていった。繁華街の交差点には本日の死者は何人とれいれいしく標示板がかかげられ、何月何日、はやくも昨年の死亡者数を超えたと、一見まっとうな警告調で報道される。しかもその直接の加害者は同じ市民である。



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