2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(58)

60年安保闘争の評価(4)
田中清玄問題(3)


 続いて吉本さんが描いてみせる状況論は、吉本思想の根本的立脚点を簡潔に表出していて感動的だ。

 わたしたちは、かって、このような情景を体験したのではなかったか? 兵士となった青年たちと大衆とが戦闘のなかで死に、将軍たちが生き残った情景を? 現実的な生活者大衆は死に「知識」人が生き残った情景を? また戦後の無数の大衆運動や政治運動のなかで見たのではなかったか? よくたたかったものは死に、たたかわないものが生き残った情景を!

 安保闘争において、わたしの属していた市民、労働者、知識人の行動組織は、全学連と共闘し、重傷2、軽傷多数、タイホ1を支払った。残念ながら、終始、全学連や共産主義者同盟から自立してたたかう力量がなかった。わたしの属した行動組織は、全学連と共闘しえたおそらく唯一の市民、知識人、労働者の集団だつたが、その賭け方では、全学連と共産同に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)せざるをえなかった。

 かれらは、よくたたかい、権力から粉砕され、わたしたちは生き残った。わたしが生き残った将軍であったとしても、どうして兵士たちの「死」に石を投げることができよう?わたしが、生き残った「知識」人だったとしても、どうしてよくたたかって「死んだ」行動者を非難することができよう? これはモラリスムの心情でいうのではない。かつて、政治を文学的に文学を政治的に演ずることに組しなかったものの、行動者と「文学」者とを峻別する論理によるものである。また、かれらの組織的「死」と、三池闘争の労働者の敗退が、情況の「死」を集中的に象徴しているという客観認識によるのである。

 これを「象徴」的な事件として粉砕された組織以外は、すべて「情況」の外に出たのである。そして、この「情況」の外にはじき出されたという現状認識が、安保闘争後のわたし(たち)の思想的な悪戦の根拠となったのである。粉砕されたものたちは、現に孤立のなかで裁判に付されており、あるいは巷に散った。わたしの敗戦体験と戦後体験は、かれらの後姿を像としてまざまざと描くことができる。

 ところで、当時も、いまも、「情況」の外にいながら、それを自覚もしていない「知識人」たちは、マス・コミと日共の共同的な謀議に和して、観客席から石を投げている。かれらの存在を見て、どうしてかれらによって担われる「文化」を軽蔑しないわけにいこうか? 「文化」が「文化」としての自立的な意味をもち「知識」が「知識」としての自立的な意味をもつためには、つねに、まかりまちがえば、現実的な壊滅をあがなわねばならない生活者や行動者の意味に「文化」や「知識」そのものによって、拮抗しえなければならない。観客席から降りもせずにどうして石を投げている暇があるのだ?



 どこかで吉本さんが、自らにとって不可避の課題を担った者を知識人と呼ぶ、というように知識人を定義していた。「不可避の課題」のかけらもなく、ただ知の世界をあさり歩いてかき集めた知識をひっさげて、マスコミにしゃしゃり出て得意げに駄弁を弄しているだけの疑似知識人が喧しい。「現実的な壊滅をあがなわねばならない生活者や行動者」に「拮抗しえ」る真の知識人は、今もなお数少ない。

 最後に、激烈な闘いの後、政治的な場から一生活者へと退却をしていった人たちを「転向者」呼ばわりする思潮に抗して、吉本さんは次のように締めくくっている。

 古典的な「転向」論は、いかなる意味でも、現在の状況では存在しえない。戦前の古典的な概念によれば、リングの上の選手がノックアウトされたとき、それに加担したものも舞台をしりぞかねばならなかった。また、ひとたびノックアウトされたものは、もとのコーナーから姿をあらわすことができず、究極的には、反対のコーナーから登場せざるをえないものであった。しかし、わたしたちの「戦後」の情況は、ノックアウトされた選手に加担した観客席は、ラムネなどのみながら、現象的に「存在」し石さえ投げることができるし、ノックアウトされた選手はいつの日かおなじコーナーから登場することができるのである。これこそが「戦後」でありその情況の本質である。

 唐牛健太郎らが、一個の市民、または人民的生活者として田中清玄の企業で飯を食おうと、どこで飯を食おうと、それは、諸個人の恣意の問題であり、そこには、当人が賦与しているような思想的意味も、他人が非難しているような思想的意味も、特別に存在しえない。人はだれでも、かれを一個の「生活史」としてみれば、支配によってその生活を司られている。

 田口富久治が、デマゴギーによって対比するように、「岸の金によって岸を倒す」ということが背理ならば、資本制社会で、その「生活史」を司られているものが、資本制社会を否定する運動をすること、思想をもつことが背理でなければならない。

 さしあたって、学校経営資本や国家資本に寄食して、社会主義的な言辞を弄する学者の存在も背理というべきであろう。

 この問題のなかには、ボタンをおしで核バクダンで多数の人間を殺生するものは、「感覚」的には抵抗を和らげられるが、手斧をもって、他を殺生するときは、たとえ一人の人間を殺すばあいでも、無限の「感覚」の抵抗を強いられるはずだということとおなじ問題しか存在しないのである。

 階級社会における「生活史」を諸個人としての「生活」に還元するかぎり、一人の人間が、資本家になるとか、検事になるとか、権力者になるとかいうことは、どのような立場からも何の問題にもならないのである。このような恣意性を「強いられる」ことのなかに資本制の本質は存在しているからである。

 何故に、マス・コミらは、日共らは、そして、知識人らは、それを問題にするのだ? そこには、3年間の歳月を無視した詐術が存在しており、また、かれらは、一様に古典的転向論に左右されている。

 3年前に全学連の幹部だったものが、3年後に一個の市民、労働者として縁故就職した? 政治責任? あるいは変節? かれらは、それを問題にするのだろうか?

 わたしのかんがえでは、それは間違いである。唐牛らが3年かかつて、そこに何らかの思想的「変化」がおこつているとすれば、そこに安保後の「情況」の変化が、「先駆的」に象徴されているものを、みるべきなのだ。唐牛らに石を投げているものの内部に、いまだ顕在化されていない「変化」が、そのなかに先駆的に示されているのである。いいかえれば、石を投げている者は、鏡にうつったじぶんの姿に石を投げているのだ。

 そして、わたしたちに、強いられている思想的、現実的課題があるとすれば、このような「情況」の変化を、いかにして止揚しうるかという困難な問題のなかにある。わたしひとりは、別物だなどと考えているものは、情況そのものが判らないのである。わからないものは情況を動かすことも、支配することもできないのは自明である。つまり「情況」外の存在である。

 革共同全国委員会の機関紙「前進」(3月11日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している。ここには、組織エゴイズムとネオスターリニスト的発想の再生する姿しかない。しかし、「情況」は、革共同全国委を第二の「日共」に成長せしめることも、唐牛らを第二の「田中清玄」に変質せしめることもありえないだろう。

 わたしたちは、歴史の地殻の変化を、その程度には信じてもいいのである。



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