2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(55)

60年安保闘争の評価(1)


 60年安保闘争を主導したブントと主流派(ブント系)全学連の闘いは、その後、どのように評価されているのか。既成左翼からの「トロツキスト」とは「プチブル急進主義」とかの皮相なレッテル貼りには関心はない。闘争の渦中にあった人たちの思想的な総括をこそ知りたいのだが、島さん・唐牛さんをはじめ中心的な役割を果たした人たちは多くを語ることなく、政治の世界から身を引いていったようだ。私の貧しい知識では、真摯な総括としては三上治さんの『独立左翼論』しか知らない。それを読んでいこうと思う。

 と思いつつ、ネットサーフィンをしていたら、 「人生学院」 というブログに出会った。管理人は「れんだいこ」と名乗っている。以下「れんだいこさん」と呼ぶことにする。

 れんだいこさんのブログは、全体の量が厖大で、かつ論題も多岐にわたっている。私にはまだ全体像がつかめていない。また、今まで目を通した範囲では、その論文はおおかた共感できるもので、質もなかなかのものだ。資料集としても充実している。これから大いに利用させてもらうことにする。論評部分を引用するときはその旨を断り書きするが、資料部分については断りなく利用させてもらおう。

 さっそく、れんだいこさんの60年安保闘争評価の弁を引用しておこう。

 60年安保闘争は日本政治史上のエポックとなっており、社会党、総評、日共は手柄話の如く語っている。しかし、末端組織での動員レベルでそう語るのは問題無しとして、宮顕系日共党中央が「あたかも闘いを指導した」かの如く誇るのは史実に反する。事実は、ブント系全学連こそが「60年安保闘争」の情況をこじ開け、檜舞台に踊り出、全人民大衆的闘争に盛り上げたのではなかったのか。れんだいこの検証に拠ると、宮顕系日共党中央は意図的に懸命になって闘争圧殺に狂奔している。案外と知られていないが、これが史実である。

 その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動は革共同運動のそれも含め三分裂化傾向がこの時より始まることになった。6・15の国会突入でブントの有能女性闘士樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日共が対立を更に深めていくことになった。

 結局、日米安保条約が自然成立した。しかし、アイゼンハワー米大統領の訪日は実現できなかった。岸内閣は倒閣された。岸のタカ派的軍事防衛政策はその後20年間閉居を余儀なくされることになった。「60年安保闘争」の総括をめぐってブント内に大混乱が発生することになった。ブントは自らの偉業を確信できず、宮顕日共のトロツキズム批判と革共同の駄弁に足元を掬われていった。

 しかし考えてみよ。60年安保闘争を渾身の力で闘い抜いたブント系全学連のエネルギーこそは、日本左派運動史上に現出した「金の卵」ではなかったか。社会背景が違うとはいえ、70年安保闘争は足元にも及ばない国会包囲戦と国会突入を勝ち取り、岸内閣が目論もうとしたタカ派路線のあれこれの出鼻を悉く挫いたのではなかったか。全国に澎湃と政治主義的人間を創出せしめた。これらは明らかにブント的政治戦の勝利ではなかったか。



 また、れんだいこさんは「戦後学生運動の高揚と凋落」の真の要因を保守ハト派と保守タカ派の抗争に求めてている。そして、「戦後学生運動の高揚と凋落」を、1960年代から現在までの政治状況とからめて、次のように俯瞰している。とてもユニークで説得力のある観点だと思う。

 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。

 れんだいこは、
1・民青同の右翼的敵対
2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件
3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロ
の3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党であった。ところが、その「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力が無く、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。

 60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。

 これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、れんだいこは、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 れんだいこは、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、
1・戦後憲法秩序下で
2・日米同盟体制下で
3・在地型プレ社会主義政治を行い
4・国際協調平和 を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。



 ちなみに、次のようなエピソードが伝えられている。

「焦土と化した日本の国土と、敗戦による荒廃した人心をいかに立て直すか、これが当時有為の人間の、言葉に出さない共通命題だった。『学生は未来の社会の宝だ。出来ることなら逮捕を避けろ』といった公安幹部が、当時、少なからずいたという」(東原吉伸)

「1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギラン『あの学生達をどう思うか』。角栄『日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない』。私を指差して話を続けた。角栄『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギランが『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」(早坂著「オヤジの知恵」)

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉―安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点が無いから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。れんだいこは、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報の五者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。

 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。

 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中―大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に、与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。

 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。

 ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。

 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕―不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。

 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕―不破―志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。れんだいこはことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例が無いなどということが有り得て良いことだろうか。

 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。



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