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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(45)

《激動の1960年》6・15国会突入闘争


6・15
 国民会議、第18次統一行動。
 安保改定阻止の第2次全国スト。
 未明から、国労.動労がストライキに突入
 総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表
 東京では、15万人の国会デモ
 全学連、二万人国会包囲デモ。先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺される。

 アイゼンハワー大統領の来日は19日に予定されていた。その時には当然天皇ヒロヒトが羽田まで出迎えに行くことになる。ハガチー来日阻止羽田闘争の経験から、警察当局はアイゼンハワー来日時の警護が困難であることを首相筋に表明した。

 そこで、岸首相は自衛隊の出動を考えた。岸は防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼びつけ、アイゼンハワー大統領訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請した。しかし、赤城の
「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」
と断固として反対した。

 岸は自衛隊出動を断念したが、アメリカ大統領アイゼンハワーと、彼を羽田まで出迎えるヒロヒトを護衛するために、右翼暴力団の大動員を思いつき、「街商と新興宗教団体」をあつめるように自民党の幹部に指示した。

 この岸の依頼を引き受けたのが児玉誉士夫である。彼は急遽、デモ隊阻止対策のため、さまざまな右翼グループと暴力団の組織化に乗り出した。

 6月14日、大東塾を中心に、神社本庁・生長の家・郷友連・国民総連合・暴力団が話し合いをし、6月15日の安保反対のデモ隊列への暴力攻撃を計画した。

 6月15日の夜、学生数千人が国会に突入し、それに対する警官隊の暴力的な弾圧の中で、東京大学の学生樺美智子が殺された。

 右翼グループは、「安保批判の会」の文化人や新劇人のデモ隊列に、トラックを後方から突入させて暴力行為を働き、40数人に重軽傷を負わせた。

 このときから日本の大方の右翼は、「国粋」や「愛国」を標榜してはいても、内実は親米親安保反共主義の暴力集団に成り下がった、と言える。

 この日の全学連の闘争を、蔵田さんは次のように記録している。

 6月15日、全学連は、17000名を結集し、そのうち1500名が構内に突入した。機動隊は学生に襲いかかり、警棒の雨を降らせ、樺美智子を虐殺した。負傷者712名、逮捕者167名の大激闘であった。

 この闘争と好個な対称をみせたのが、都自連であった。都自連は、神宮絵画館前に15000名を集めて集会を開き、国会をかすめて八重洲口まで平和デモを行ったが、終着点では三分の一に激減していた。「学生虐殺」の報に接して自治代を開いたが、新規入校の猛反対に出会って、「引っ返して国会に向かおう」という執行部提案を否決し、全学連の死闘を黙殺してしまった。



6・16
 南通用門の祭壇に10万人が弔意
6.18
 50万人の国会デモ
6・19
 国会内に一人の議員もいない中、安保条約自然成立
6・23
 岸退陣表明

 6月16日から6月23日までの闘争のあらましを、蔵田さんは次のように記録している。
 翌16日、学生は一番電車で学校に帰り、「虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕、全国学生無期限スト」に着手した。

 6.15闘争の最先頭で闘った明大生たちは、その日の朝までに約20種、数万枚のビラ、高さ二メートルの立看板でキャンパスを埋めつくした。その他の大学でも、4000―2000名の部隊を結集して、再度国会正門南通用門を埋めつくし、その数は二万名以上に達した。

 6月18日は安保自然成立の前日だった。全学連の全国動員に呼応して、地方大学も続々上京し、日比谷公園に二万名が結集して「樺美智子虐殺抗議、岸内閣打倒総決起大会」を開催、そのあと国会デモを行った。虐殺跡の南通用門附近では、全学連部隊は空前絶後の四万名にふくれ上がり、労働者や市民をふくめ六万名による徹夜の抗議集会を敢行した。国民会議もこの日三〇万名が国会デモを行った。

 6月19日、「世界を震憾させた十日間」は終わった。闘争は急速な退潮をみせ、20―23日までは雨の降るなかを、全学連は連日連夜、集会とデモによって迫撃を試みたが、状況を切り拓くことはできなかった。

 それ以上に空虚な試みは、国民会議6・22ゼネストであった。この実力行使は、安保闘争の全過程を通じて、つねに、先へ先へとのばされ、「今度こそは前回を上まわるゼネストを」という指導部の空文句の最後の仕上げであり、投げ場を求めた猿芝居の幕引きにすぎなかった。

 とはいえ、全学連を先頭とした安保闘争の巨大な高揚は、安保自然成立と引きかえながら、岸打倒、アイゼンハワー来日粉砕をかちとった。

 6月23日、全学連は6000名を結集して、岸退陣表明のその日、「樺美智子全学連追悼集会」を開催した。

 その一部は、日共本部にデモをかけた。これは「ぎせい者を出した責任はトロツキスト指導部にある」(『アカハタ』60年6月22日)にたいする求釈明だった。また・都自連の恥ずべき行為も歴史にとどめておくべきだろう。

 都自連は、6・15闘争以後は動員数においても急速な退潮を示し、街頭闘争からも召還していった。彼らは、全学連の死闘をよそに、いっせいに街頭カンパを行い、「犠牲者救援」を訴えた。都内数十カ所、数百名のカンパ隊をくりだして、数百万円を募金し、都自連で私物化し、全学連の抗議によって一部を上納したにすぎなかった。これがかの名高い「香典ドロボ―事件」である。このエピソ―ドは、当時の日共派の実践的、思想的、道義的な反階級性を示す象徴的な事件であり、安保闘争の日共都自連版総決算であった。日共本部デモという前代未聞の抗議の洗礼も、けだし当然であった。



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