2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(42)

《激動の1960年》1・16羽田闘争


1960年
1・3
 ブント全国代表者会議「羽田で政府代表団渡米阻止」決定。単独でも羽田実力阻止闘争を決行する方針を確認した。

1・6
 日米安保条約改定交渉妥結

1・7
 国民会議は「羽田デモ中止」を再確認。

1・8
 東京地評幹事会は賛否伯仲であった。

 このような経過を経て、反安保勢力結集の工作が開始される。

1・10
 全学連、社学同、社会党平和同志会有志、日本平和委員会書記局、地評常任幹事会有志によって「羽田デモ実行委員会」が結成された。
 地評常幹有志には、全金、全国一般、全日労、東貨労、化学同盟、印刷出版その他が結集した。

 こうして、共産同がめざした左派戦線の結成が実現するかにみえた。

 ところが、日共はこれに向かってなりふりかまわず破壊工作を行った。〝総評が第二地評を本気でつくろうとしているから、はね上がるべきではない″という口実をデッチ上げて、党員を総動員して各個撃破に乗りだした。 そのために、実行委員会は全学連=社学同を除いて、雪崩をうって瓦解してしまった。



1・14
 新安保閣議決定、代表団訪米を15日午前8時と決定

 同日、国民会議主催の「岸渡米反対・抗議団結成大会」が、中央・地方代表2000名を集めて開催された。このときの全学連の激しい抗議は圧倒的な共感を得て、大会は混乱と怒号のうちに散会する結果になった。

1・15
 全学連は「岸の出発は22時間繰り上がり、16日午前8時に決定……」という情報をキャッチした。

 〝明朝では遅い! 今夜だ! 敵の機先を制して即刻羽田空港占拠すべし!〟

1・16
 岸訪米阻止羽田闘争。全学連空港ロビーに突入

 合同指導部はただちに都内各自治会に緊急動員を指令、学生700名が空港閉鎖寸前のわずかなスキを衝いて、空港ロビーを占拠、食堂にたてこもって深夜の徹底抗戦を闘い抜いた。

 空港外でも、遅れて到着した3000名以上の学生が、岸出発直後まで夜 を徹して氷雨の中で激闘をくりかえした。

 この闘いでは、唐牛委員長ら全学連執行部、ブント指導部ら77人が検挙された。
 岸訪米を許したとはいえ、全学連の十数時間に及ぶ激闘は、内外に異常な反響をまき起こした。ラジオは深夜の実況放送を流し、外電も「事件」を大々的に報じた。

 なかでも、『プラウダ』は「岸はカモシカよりもすばやく逃げた。それは羽田における愛国者の闘い」だと評して話題をまいた。

 また『アカハタ』は、岸が「裏通りから泥棒猫の如く」日本を「脱出」せざるをえなかったのは「安保に反対する人民の世論によるものだ」(1月17日)と臆面もなく評論した。

 労働者のあいだでも「その日から4-5日間というものは、職場では全学連の話題でもちきりだった」(長崎造船社研「羽田の空は美しかった」)という事態を現出した。

 他方、国民会議はこの日も恥ずべき裏切りを演じた。あたかも岸の早朝脱出という事態さえも起こらなかったかのごとく、予定通り日比谷中央集会を開催し、羽田にはわずか100名の抗議団を送りこんだにすぎなかった。

午後1時には5000名が雨中の集会をもったが、かけつけた200名の学生によって演壇を占拠され、国民会議指導部は学生や労働者から激しく糾弾され、大会は混乱のうちに終わった。



 共産党・社会党・総評、国民会議から全学連排除決定

1・17
 国民会議全国代表者会議が開催された。指導部が「統一を守らなかったものに反省を求める」とマトメをしようとしたことにたいして抗議がまき起こった。

1・19
 日米政府間で新安保条約調印

1・25
 三池労組無期限全面スト突入

1・28
 国民会議代表者会議
 「羽田へ行け」という大衆討論の結果をふみにじった指導部への抗議、「羽田闘争はよくやった闘争」だという評価、「羽田に行かぬことでは、おくれた者、卑怯者は助かったのであり、全学連の行動はすすんだ者には勇気を与えた」という声が、兵庫、大阪、京都、山口などの代表から発言された。

3・16 第15回全学連臨時大会、共産党系、革共同系排除、4・26ゼネスト決定

 石川達三、清水幾太郎等、全学連支持、既成左翼を批判。

 このように全学連の闘争は圧倒的な共感を生みだしたが、その共感は、部分的ながら既成左翼への批判→革命的左翼への結集となり、一時的な流動化状況を生みだした。

 そのひとつは、日共港地区委員会の党内闘争宣言→共産同結集であった。港地区委は、すでに前年12月23日、「プロレタリア革命勝利のために、公然たる党内闘争を展開せよ!港地区委員会は声明する」を発表していた。その主な内容は、党中央の統一と団結論批判、組織原則優先論批判、安保粉砕・岸打倒・政府危機→政治危機……を骨子としていた。

 また、長崎造船細胞も除名者を中心に長船社研を結成し、今日の少数派組合運動の礎石を築いた。

 さらに、学生細胞では11・27闘争の過程で同志社大、京大細胞が解散声明を出して、共産同へ結集した。

 さらにまた羽田闘争の一ヵ月後には、当時の左翼知識人を代表する17名によって「諸組織への要請」が発表され、理論戦線においても前衛党神話の崩壊が大衆的にはじまったことを示していた。

 とはいえ、それ以後の事態の冷厳な推移は、必ずしもブント主義の絶対的妥当性をうらづける結果にはならなかった。味方内部の流動化状況は、あの激動の数十日を頂点にして、潮が引くように下降していった。

 しかし、共産同、全学連は極限をめざしてその可能性を追求していった。



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 コメント
この記事へのコメント
筑紫哲也の死
1935年年生まれで朝日新聞記者となったのが1959年、まさに安保世代を代表するジャーナリストではなかったかと思います。

戦中派に続いて安保世代が消えようとしています。彼らが体現していた19世紀の近代主義思想に代わって世界を展望する20世紀の世界思想というのは果たしてあるのでしょうか。
2008/11/08(土) 17:01 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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