2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(41)

1959年末・国民会議の醜態


(長い寄り道でした。本道に戻ります。)

 国会突入闘争の翌日、政府官憲は全学連指導部五名を逮捕したが、二名が逮捕を逃れた。この弾圧にたいして、全学連は二名の学内籠城闘争で対抗した。そして、来たるべき12・10闘争には、再度の「国会構内大抗議集会」をめざして闘うと声明した。だが、12・10闘争は、国家権力ばかりか、共産同を除く全ての革新勢力の集中砲火のなか で圧殺されていった。

 国民会議は、大衆闘争の再爆発を恐れて中央集会とデモを中止、炭労24時間スト、国労職場集会へと戦術ダウンを強行した。全学連もやむなくチャペルセンター前集会から、日比谷野外音楽堂集会に切り替えた。その集会には一万名が結集した。全学連各派の自治会旗が乱立する騒然たる雰囲気がただようなか、舞台裏会議室自治代者会議は国会デモ中止を決定した。野外音楽堂から東京駅までのデモという戦術ダウンとなった。学生運動史上、日共系、反日共系自治会両派が統一集会・統一デモを行ったのは、この日が最後となった。

 2・27国会突入闘争から12・10闘争の挫折について、蔵田さんは次のように総括している。

 2・27国会突入闘争は、60年安保闘争の激闘を切り拓く一大序曲となった。そして、この第八次統一行動から、次の12・10第九次統一行動における国会再包囲をめぐる「14日間の死闘」、さらには、翌年1・15羽田闘争にいたるまでの「36日間の死闘」は、階級情勢を極限まで凝縮していつた。全学連は日和見主義、裏切り、集中砲火、孤絶のなかで、最後まで闘いの貫徹をめざした。

(中略)

 この「14日間の死闘」において、全学連の国会再包囲デモをめぐる、敵と味方内部における攻防がいかに熾烈をきわめたか、その規模と内容の壮大さを、次の羽田闘争をめぐる「36日間の死闘」のなかにみていくことにしよう。



 60年安保をめぐる攻防の焦点は、来たるべき60年1月16日の岸訪米阻止闘争にしぼられた。全学連は、12月14日、第21中委を開催して「岸訪米実力阻止」を再確認し、〝冬休みを返上して、1・16岸訪米実力阻止、数千名羽田現地へ!″を合言葉に、総力を結集して闘い抜くことを決定した。その決意の論理的裏付けは、「学生運動先駆性論」と呼ばれている。

「労働者階級の闘うエネルギーが消失したのでは決してない。方針がないのだ。指導部がないのだ……。闘いの火は、日和見主義指導部の下に抑圧されながらもえ上るのを待っており、彼らは方針さえ与えられるならば、必ずや立つであろう」(。全学連21中委議案」59年12月)

 一方総評は、3月15日、春闘討論集会を開催して「岸が渡米するときは羽田において抗議する」ことを確認して、大衆からの突き上げをかわした。

 3月17日、国民会議も「羽田阻止」の方針を13対0で決定しようとした。だが、日共の反対で決定は持ち越され、その二日後に幹事会を再開して、。羽田空港にいたる沿道に大規模な動員を行って、断乎としたたたかいを展開する」という方針を決定した。
 この決定に対して、
「だが、この方針の最終決定は〝現地調査″をしたうえで行う……という留保条件がついていた。この筋書こそは、彼らが演じた猿芝居の布石だった。」
と、蔵田さんは手厳しい。

 20日、国民会議は現地調査を行う。その結果、21日に総評幹事会は「羽田動員」の項目を削除することを決定した。太田議長はその理由を翌22日総評単産書記長会議の席上で次のように説明した。それはまるで恫喝に等しかった。

「おまえらは、国会周辺というせまいところでさえ統制がとれないではないか。それが羽田のような広いところでは、統制がとれるわけがない」(斉藤一郎『安保闘争史』)

 この時の既成指導部の論理は、いわゆる「幅広イズム」である。
「安保にたいする国民の関心は低い。無関心層の多い現段階では、国民を運動に引きつけることがなによりも必要である。尖鋭な行動はかえって国民の反発をまねき、世論の支持を失う結果になる……。」

 蔵田さんは、これを「低位水平型統一行動」と呼んで、その特徴を4点にまとめている。


 つねに運動の量的拡大のみを自己目的化している。

 つねに質的発展を無視している。

 つねに闘争形態を低水準におしこめる。

 つねに突出した闘争にたいして犯罪的な圧殺をこころみることをもって、民主勢力の統一と団結にすりかえていく。

 これは議会主義=平和革命路線の必然的帰結である。そこには、運動のダイナミックな弁証法のひとかけらもなかつた。



 この総評幹事会決定にたいして、下部組織は強く反発した。暮もおしせまった12月25日の国民会議全国活動者会議、その前日開かれた活動者会議日共党員グル―プ会議は、混乱のルツボと化した。だが、12月26日、国民会議幹事会は、羽田動員方針を〝たった一秒〟で否決してしまった。しかも、1対12という少数意見=総評が、多数意見を否決し、それを日共が支持した。「前代未聞のデモクラシー」と、蔵田さんは苦々しく揶揄している。

 かくして国民会議の最終方針は、「1・14全国的中央集会、1・15全権団・政府・自民党・アメリカ大使館抗議、1・16都心デモ→日比谷集会」ということになった。

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