2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(38)

砂川闘争(3)


第一次砂川闘争・補足1

 砂川闘争は抵抗権行使運動であり、その闘争方法は見事な非暴力直接行動であった。私は自ずと 「三宅島の闘い」 を思い出す。

 砂川闘争での非暴力直接行動について、道場さんは次のように記述している。少し長いが、全文掲載しよう。

 この時代の「実力闘争」は、いずれも現地住民が素手で国家権力と対峙したものであり、支援者・支援団体もこれを支援する上で「実力闘争」を構えはしたが、その中身はといえば、スクラムや座り込みによって警官隊を阻止することがほとんどすべてであり、投石・火炎瓶投擲・武器による攻撃・爆発物の使用などの「武闘」を含むものではなかった。

 迎え撃つ警官隊側の装備も軽微なものであったが、それでも警棒のめった打ちや顔面・下腹部などを狙った棒の突き上げなどによって多数の負傷者を出した。支援者や反対同盟はこれに「やりかえす」のではなく、徹底した不服従で対応した。つまり、倒されても引っこ抜かれても、再びスクラムの列に入り、座り込むのである。それは必ずしも体系化された「非暴力主義」の思想に貫かれたものではなかったかもしれないが、「やりかえす」ことのない人々に対する一方的な暴力の行使に疑問を感じた警察官があらわれ、世論の憤激を生み出した。

 砂川にはすでに55年8月末に日本山妙法寺の僧侶が入り、同年12月から「砂川道場」を開いて地元反対同盟と行動を共にしていた。僧侶たちは「不服従」と大書したむしろ旗と日の丸の旗を掲げ、機動隊の前に座り込んでめった打ちに遭った。

 闘争委員会・反対同盟もまた「無抵抗の抵抗」を基調に据え、徹底した不服従を貫くことで基地拡張を阻止しようとしていた。支援者らはその闘争委・同盟の方針に服した。

 「流血の砂川」 ののちしばらくしてある警察官が自殺した。彼はこの日砂川に出動して以降、精神的な悩みを訴え、「将来の希望を失った」との遺書を中隊長宛に残して命を絶った。別な警察官は辞表を出して、故郷の青森で社会福祉の仕事につくとともに、妙法寺の仏事に協力を惜しまなかったという。

 非暴力の人々に対する暴力の行使ばかりでなく、農民の土地を取り上げてアメリカに差し出す行為が、「公」の行為としての正統性をもつものであるかどうかの確信を揺さぶったものと考えることもできるかもしれない。日本の産業人口はまだ農業が大きな割合を占めていた。

 衝撃を受けたのは日本の警察官ばかりではなかった。この日配備されていた横田基地から立川基地へ出動を命じられたアメリカ兵、デニス・バンクスは、フェンスの向こう側で展開される光景に強い衝撃を受け、アメリカ先住民である己れのアイデンティティを問うたという。彼もまた、のちに妙法寺の僧侶に出会い、平和主義を生涯の指針とする先住民運動を始めることになる。

 この事実をのちに知った吉川勇一は運動が生み出したものを「こんな形で国境、人種、そして時代を超えて知らされた」ことに強い感銘を受けたと述べている。

 


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