2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(37)

砂川闘争(2)


第一次砂川闘争

1954年3月
 アメリカ政府、立川・横田・新潟・小牧・木更津の五飛行場の拡張を日本政府に要求

 これは、1953年7月の朝鮮戦争休戦によって生じた東アジアの現状固定(国境線の不変更と内政不干渉)の枠組みを前提とした基地強化の一環であるとともに、ソ連の水爆開発やフランスのインドシナ撤退といった一連の事態を踏まえ、水爆搭載可能なジェット爆撃機や大型輸送機の発着を可能にするためのものであった。翌年には日本政府 はMSA協定に基づく防衛分担金の減額と引き換えにこれらの基地拡張を受諾し、調達庁(のちの防衛施設庁)による土地の買収と強制収用の手続きが進められることになった。

1955年5月
 砂川町長に当選して間もない宮崎伝左衛門のところへ東京調達局立川調達事務所長が当選祝いの挨拶に訪れ、基地拡張計画への協力を依頼。

 宮崎はこれに先立つ52~53年の基地拡張の際に補償交渉を取りまとめた有力者であり、調達庁は今度も協力が得られるものとの安易な見通しがあったようである。

 今回の基地拡張計画は、町役場も立地している町の中央部分の地区を立川基地に編入するというもので、東西に細長く伸びた同町が真二つに分断されてしまうという大規模なものであった。

 接収対象となる砂川四番・五番地区の人々は、計画を知らされるとすぐに砂川基地拡張反対同盟を結成し、抵抗に立ち上がった。町当局も全町的な取り組みで反対運動に乗り出した。

6月22日
 調達庁、「拡張計画第二案」を提示

 この第二案は、拡張対象地域のみの孤立した運動にしないために砂川町闘争委員会「企画部」が考え出した〝秘策″に、調達庁が乗せられて作成したものであった。

 「企画部」は、町を東西に分断する当初案に対し、滑走路の角度を変えて、反町長派の地権者の土地にかかる代替案を調達庁に提案させる作戦を練った。「企画部」は反対同盟にも秘密で調達庁と水面下の交渉を行っていた。彼らは、この滑走路の角度変更案なら地元の抵抗は少ないだろうともちかけたのだ。

 これが提案されるや、反町長派も含めた全町的な接収反対の運動が広がることになる。結果的に代替案は横田基地の航路と衝突するということで廃案になったが、「企画部」の思惑通りに、町議会を主体に、反対同盟・町長・教育委員会・農業委員会・婦人会・消防団・青年団・遺族会等町内のすべての社会団体を「動員」した全町的闘争機関である「闘争委員会」が始動した。

 この全町的な闘争体制を背景に、宮崎町長は土地の強制収用のための公告・縦覧手続きを拒否することができた。それに対して、土地収用の責任者である東京都知事が職務執行命令訴訟を提起する。

6月
 町民総決起大会での町長の演説より。
「立入通告を拒否して公告はしないが、これは全国初の町長の拒否権であります」

9月
 拡張予定地の外郭測量に対する阻止闘争。

 闘争の最初の山である。予定地の外郭を確定するための杭打ちを伴うこの測量に対し、町の闘争委員会は、労組の支援も受けて、「町ぐるみ」の阻止体制をとった。このとき、町議からも逮捕者が出て議会は動揺するが、拡張「絶対反対」が多数を占め、体制は維持された。同時に「条件派」も誕生することになる。

9月22日
 最初の杭が打たれる。

 この時、行動隊長の青木市五郎は「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」との有名なことばを残している。

10月14日
 鳩山首相、事業認定。
 反対同盟、認定取消の行政訴訟を提起。

1955年10月~1956年2月
 土地収用のための精密測量の阻止闘争が闘われる。

 座り込みやピケットばかりでなく、「話し合い」の設定による引き延ばし、糞尿を浸した笹をふる「黄金作戦」や、視界を妨げる「煙幕作戦」など、創意に満ちた「測量阻止」の行動が組まれた。だが、この間少しずつ測量は実施されていった。

1956年秋には、第一次収用申請分の残りと、第二次収用申請分の土地に対する精密測量を政府側が強行してくることが予想されたため、砂川町・反対同盟は実力部隊として全学連を砂川現地に導入することを決める。

9月13日
 全学連は連日3000人を動員することを発表

 全学連は10月から大規模な泊り込みと動員の体制をとった。

 10月2日からの連日の「衝突」により、学生・労働者の側にも警官の側にも負傷者が出ている。

10月13日
 激しい衝突により、多数が負傷者が出た。いわゆる「流血の砂川」事件である。

「流血の砂川」事件がマスコミによって大々的に報道されたこともあつてか、政府は翌14日の測量中止を決定する。

10月14日
 政府は、これ以後の測量の中止を発表。

 以上が、「町ぐるみ闘争」が勝利した「第一次砂川闘争」の経緯である。

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