2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(26)

「倭」と「日本」(9):「日本」という表記の源流(2)


 前回の議論で古田さんは、縄文時代からの水田地帯板付の水田が弥生中期以降プッツリと「消滅」しているのはなぜだろう、という問題を提起していた。この問題の解明が、今までの議論の考古学上の裏付けとなる。

垂柳(たれやなぎ)・砂沢遺跡
 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。1956年(昭和31)に籾痕のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明した。
 その後、1987年に弘前市のから弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。

 「弥生文化は、西から東へ」と伝播していったので、「東北地方に弥生時代の稲作はない」というのが学界の「定説」だった。この垂柳・砂沢などの「弥生水田」が見出されたときも、一般に次のように考えられた。

「九州から近畿、東海(又は北陸)、さらに関東地方や東北地方南半部へと伝播し、その最後に、ここ砂沢・垂柳というような、東北地方の北端部まで、稲作りの技術が至ったのだろう。」

 そして、砂沢・垂柳よりもっと古い水田が、東北地方の南半部、あるいは福島県や山形県や宮城県などから、きっと次々と見つかるだろう、と期待された。

 ところがあにはからんや、その後の発掘が示した事実は、次のようであった。

「東北地方で、一番早く、稲作の水田が誕生し、発達したのは、北端部の津軽だった。」

 これが、率直な事実、発掘そのもののしめす、厳粛な事実だったのです。

 そしてこの本『東日流外三郡誌』のしめすところも、安日彦・長髄彦は「稲」をたずさえて「筑紫の日向」をはなれ、ここ津軽で稲作の方法を教えた、と言っているのです。そう、彼等の道は対馬海流の流れゆくところ、海上の道だったのです。

 その長髄彦は、この本では何と、稲をもった姿でたびたび描かれているのです。さらに、中国渡来の集団(晋の君公子の一族)の渡来という事件も、安日彦・長髄彦と共に強調されています。

 その稲の水田の作り方も、福岡県の板付などと類似点の少なくないことが指摘されました。(他には菜畑・唐古も)

 もちろん、青森県という気候の寒い地帯に適した工夫は色々と行われたようですが、基本は板付(筑紫)と砂沢・垂柳(津軽)と両者共通しているのです。時期的には板付の方が古く、砂沢・垂柳の方が新しい。ですから、「伝播」という矢印、その矢印の方向は、いうまでもなく、「筑紫から津軽」です。



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