2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(25)

「倭」と「日本」(8):「日本」という表記の源流(1)

 「倭」を「ヤマト」と読み、その「倭」を「日本」で置き換え、「日本」=「ヤマト」としたという「天才的な発想」が天武のものだったとして、では「日本」という表記を天武はどこから得たのだろうか。天武の独創だったのだろうか。

古田武彦さんは『「東日流外三郡誌」を抜きに日本国の歴史を知ることはできない』という講演で、びっくり仰天するような論説を展開している。それを紹介しよう。

「東日流外三郡誌(つがる・そと・さんぐんし)」(以下「東日流」と略称する)については 『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(3)』 をご覧ください。

 古田さんは、「東日流」を読んで、次のような問題を提示している。

第1
 なぜ「つがる」という地名に「東日流」という、変な三文字を当てているのか。音(おん)が当っているのは、最後の「流」という字だけです。「流罪」と書いて「るざい」と読みます。この[る」です。しかし、上の二字は、全く音が違います。

第2
 この本では、安日彦・長髄彦以来の国を「日下(ひのもと)」或いは「日本(ひのもと)」と言い、「日下将軍」などと、呼ばれていたことがくりかえし出てきます。「日下」は「くさか」とも読む字ですが、ここではそうではありません。「ひのもと」です。文字は、「日下」と書いても「日本」と書いていても、発音は同じ。

「わたしたちの国は、『ひのもと』という名前である。」
 この一点がくりかえし主張されているのです。これは、なぜでしょう。

第3
 安日彦・長髄彦兄弟が、そこから来た、という「祖国筑紫の日向」とは、どこでしょうか。孝李はこれを"九州の日向(ひゅうが)の国"つまり、今の宮崎県だと考えたようですが、果してそれでいいのでしょうか。わたしには疑問でした。この点から、もう一回考え直してみましょう。



   「第3」問題については、この「真説・古代史」シリーズでは既に何度も取り上げてきていて、私(たち)には周知の事柄である。すなわち、「筑紫の日向」とは"福岡県の日向"である。古代史において最重要地域の一つである。あらためて、その地域を確認しておこう。

 福岡県福岡市の西寄りに高祖山(たかすやま)という連峰があり、その山々の中に「日向(ひなた)山・日向(ひなた)峠」がある。日向峠は、今はバス道の停留場となっている。またこの山々から日向(ひなた)川が流れ出し、博多湾岸にそそぐ室見(むろみ)川へと合流している。その合流点には、吉武(よしたけ)高木という、わが国、最古の「三種の神器」(鏡と剣と勾玉)をもつ、弥生の墓がある。

 安日彦・長髄彦の祖国は、ここ博多湾岸だった。

 さて、「博多には『ヒノモト』という字(あざ)地名が多くある。室見川の中流、やや河口寄りに日本(ひのもと)橋があり、その東には日本(ひのもと)団地がある。調べてみると、博多湾岸に3ヵ所日本(ヒノモト)という字地名がある。福岡県全体では5ヵ所あった。

1 筑前国・那珂郡・屋形原村・日本
2 筑前国・那珂郡・板付村・日ノ本
3 筑前国・早良郡・石丸村・日ノ本
4 筑後国・生葉郡・干潟村・日本
5 筑後国・竹野郡・殖木村・日本

 他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各1、2ヵ所、「ヒノモト」という字地名が見出されるが、博多湾岸が「ヒノモト」の最密集地帯である。

 つまり、日本列島で最大の弥生前期の水田地帯板付(いたつけ)の真ん中が「ヒノモト」というわけだ。その上、なぜか、この地帯では、弥生中期以降、プッツリと、水田が「消滅」している。何が起ったのだろうか。ここにはたくさんの「縄文人の足跡」が水田の上に残されていたので有名だ。その足跡の主(ぬし)たちは、一体どこへ消えたのだろうか。

 例えば、ヨーロッパから新天地のアメリカへ移住した移民たちは、その新天地に故国の地名をたくさん付けている。つまり往々にして人々は「地名をもって」移動する。同じように、安日彦・長髄彦たちも「ヒノモト」という「地名をもって」西から東へ、つまり筑紫から津軽へ、移動したのではないか、と古田さんは言う。そしてこれが、「第1」の問題を解くカギであった。

 上の新発見を裏付けるキイ(鍵)、その第一は、先に上げた「東日流」と書いて「つがる」と読む、あの不思議な文字です。「つがる」というのは、もちろん本来の地名です。おそらくは、アイヌ語さらには大陸の粛真(しゅくしん)や靺鞨(まっかつ)といった一大部族の言語とも関係があるかも知れません。ともかく、青森県の古代からの現地語だったのです。

 その「つがる」という地名に対して、なぜ「東日流」という三字を"当てた"のか。これが一番大切なところです。それは
「「ヒノモト」という地名をもって、西(筑紫)から、この東(津軽)へ流れてきた。」
その史実、その史実の核心を指しているのではないでしょうか。そう理解すると、最初は何とも"奇妙奇てれつ"に見えた、この三字がピタリと収まります、理解できるのです。

 先にものべましたように、この三字は、決して「つがる」という「音(おん)」を現わしたものではありません。表意つまり"意味を現した"ものです。その意味とは、彼等の辿ってきた歴史のすじ道、その史実を現わすための、意味深い文字使いだったのです。この基本の事実に、わたしは今やっと目覚めることができたのです。大きな収穫でした。



スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1135-1985ad83
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック