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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(27)

「倭」と「日本」(10):国名・地名としての「ヤマト」(4)


 中村さんは、万葉集の「ヤマト」を含む歌の一覧表で、『「山常」を「やまね」、「八間跡」を「はまと」と読むべきである』という古田説を注記している。にもかかわらず、古田説に異論があるのだろうか、『「山常」は「山跡」の誤記であろう』と言い、「山常」を「山跡」の一つとして扱っている。

 古田説に異論があるとしても、なんの根拠もなく「誤記」と断ずるのは、早計であると思う。疑問点・矛盾点を「誤記」を武器に一点突破する方法は、ヤマト王権一元主義者たちの常套手段であった。それ故に、彼らの掲げる「定説」は、ますます過ちの深みにはまっていった事実に、私(たち)はこれまでにたくさん出会ってきた。安易に「誤記」とせずに、「表記のルール」に従って解読するという古田さんの方法論を堅持すべきだ。

 「山常」・「八間跡」の読み方については、私は古田説を採るが、全体の論旨には影響がないことなので、中村さんの論文の関係部分を訂正せずに、そのまま紹介していくことにする。

 さて、中村さんが調べ上げた万葉集の「ヤマト」の頻度数は次の通りである。

総歌数、43首
 山跡(山常を含む)   15首
 日本          21首
 倭(和を含む)     12首
 万葉仮名(八間跡をふくむ) 5首


 これまでの議論より、対象は「山跡」・「日本」・「倭」に絞られているが、この三者に絶対多数の使用例はなく、どれが本来の「ヤマト」かは、頻度数からは判定できない。そこで次に中村さんは、「ヤマト」の出現時期に注目して、それぞれの「ヤマト」の初出の歌を調べている。(中村さんは該当の歌を全文記載しているが、ここでは歌番号と時代を示すための漢風諡号だけを記載する。)

(1) 山跡

 第1歌 雄略
 第2歌 舒明
 第484歌 孝徳
 第91歌 天智


 中村さんは、「雄略が初出ではあるが、若し、『万葉集』に雄略以前の「ヤマト」の歌があったならば、当然「山跡」であっただろう」と推定している。

(2) 倭

 第105歌 持統

 この歌は持統の時代に分類されているが、天武死亡直後に詠まれているので、天武の時代は「ヤマト=倭」であったと推定される。

(3) 日本

 第52歌 文武

 「藤原宮の御井の歌」であるが、「わが大王、高照す日之皇子」の表現があるので文武の時代と推定出来る。

 以上をまとめたものが次の表である。

「ヤマト」変遷1


 この図1をどの様に解釈すればよいのであろうか。

 私見を述べると、「ヤマト」は雄略・舒明・孝徳・天智の歌に表記されている通り、元来は「山跡」であり、中国史書に出現している「倭」とは異なると解釈すべきであり、天武の時代に「山跡」から「倭」に変化したと理解すればよいと思うのである。

 然し、古田武彦氏出現以前の大和朝廷一元説中毒とも云える歴史学者達は、大和朝廷の飛躍的発展の手掛りを壬申の乱にのみに求め、(戦前の歴史学界では壬申の乱もタブーであった)天武の時代に関する数多くの論文を発表されている。私も壬申の乱の重要性を否定するのではないが。それらの論文を読み返しても、「ヤマト」が「山跡」より「倭」に変化した必然的な理由を発見出来ないのである。

 そもそも歴史学者達は「ヤマト」は神武以来「倭」であり、中国史書に出現している「倭」は大和朝廷であることを前提として立論されているのであり、「山跡」→「倭」の変化には気付かれていない。

 冷静に考えると、壬申の乱は単なるクーデターに過ぎず、天武の勝利により具体的に変化したのは、都が淡海より、「ヤマト」に違っただけであり、都の移動が「ヤマト」の表記を「山跡」から「倭」に変えたのである。



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