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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

488 ロシア革命の真相(5)

アナーキズム 対 ボルシェヴィキ(3)

2006年5月1日(月)





 1918年4月、ボルシェヴィキはアナキストに対する弾圧を始めた。

 1918年4月12日、チェカ(1917年12月にレーニンが創設した秘密警察)がモス
クワのアナキストセンターを攻撃した。続いて他の都市のアナキストもその
後すぐに攻撃された。アナキストの投獄・銃殺は1922年においてもなお続い
ていると、その惨状を訴えた当時の檄文(エマ・ゴールドマン、アレキサン
ダー・ベルクマン、アレキサンダー・シャピロ連名)は伝えている。



 大衆に最も強い支持を受けている目の上のタンコブの抹殺と同時
に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を
制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・
仕事場や大地での自主管理、これら全てが「社会主義」の名の下に破壊された。
レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難したが、1918年5月末
に内戦が始まると弾圧か加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織
的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその
「独裁」の主体たるべき階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだった。



 内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は
死んだ。内戦開始(1918年5月末)以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労
働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労
働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道
具となった。

 外の世界に対しては、「真の社会主義」の基盤を組織的に破壊してしまった
ボルシェヴィキとUSSR(ソヴィエト社会主義共和国連邦 )が「社会主義」
を標榜するようになった。ボルシェヴィキの「社会主義」は次のような「犯
罪的愚鈍」によって成り立っていた。



ソヴィエトを国家機構に変換すること。

ソヴィエト権力を政党権力に取り替えること。

工場委員会の土台を破壊すること。

軍隊と仕事場の民主主義を排除すること。

政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧すること。



 ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除した
のである。権力を持ったボルシェヴキは、バクーニンの予言の通り、『プロレ
タリア階級の独裁』を共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』
に変質してしまったのだ。スターリン主義への道筋は必然であった。



 1921年、クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕する
ことで「真の社会主義」にとどめを刺し、ボルシェヴィキはソヴィエトの征服
を完成した。(「クロンシュタットの蜂起」と「マフノ主義運動」については
後ほど取り上げる予定でいる。)

 このようにして独裁者になったボルシェヴィキがやってのけた労働者・農民
へのおぞましい蛮行の一端を書き留めておこう。




 此の数ヶ月続いた旅行の豊富な経験を詳細に述べることは、到底此の論文の
よくする所ではない。私はそれを、いづれ、十分にそして完全に、出来るだけ
公平にやって見たいと思ってゐる。が、ここで私は、私がペトログラドやモス
クワで聞いた事や、クロボトキンが私に話した一切の事は、私が種々なる旅行
の間に、即ち最初はウクライナに次ぎには北部ロシアにそして最後には西部ロ
シアに見た事と較べると、殆んど何んでもない事だと云ふ事を極力語勢を強め
て云って置きたい。さう云ふのは悲しい事だが、しかしそれは総て本当なのだ。
実際、もつと多くそしてもつとひどい事があったのだ。そして今まだ繰いてあ
るのだ。



 (ボルシェヴィキのラアツヴョルストカ(強制徴発)は、最悪の皇帝政治も決
して及ばなかった程の事をしてゐるのだ。革命政府が、よしそれがマルクシス
トであるとは云へ、こんなにひどい残忍と野蛮な復讐とに堕落し得たと云ふ事
は、全く信すべからざる事のやうに思へた。復讐―これだけで農民に対するボ
ルシェヴィキの気違ひじみた政策を十分に云ひ現はしてゐる。ラアツヴョルス
トカ―食物の強制徴発は無茶苦茶に行はれた。



 全村々が荒らされて、其の住民がゐなくなって了つた。私は男の成年が全く
ゐなくなって了つた村々を見た。男は皆な銃殺されて、女と十四歳以下の男の
子とだけが残ってゐた。

 他の村々では男は一人づつ鞭打たれて、そして其の年齢には構はずに皆な強
制的に軍隊に入れて了つた。

 或る村々では、男は『懲罰隊の共産主義者』等を幾度も経験し、後に、山や
森の中に逃げとんで、そこで謂はゆる『グリインス』(草賊)となってボルシ
ェヴィキに対する復讐の容赦のない.パルチザン的戦闘に従つた。

 私は食物徴発のために最後の麦粉までも持って行かれ、又農民等が次ぎの種蒔
きの用意に取って置いた種子までも持って行かれた村々を見た。法律できめられ
た課税以外に、牛や馬も取られ最後の家禽や毛布やぼろぼろに裂けた枕までも
取られて、其の村々は乾いた骨のやうに裸になって了つた。全村々がボルシェ
ヴィキの懲罰隊の砲兵によって、或は懲罰のために、或は近隣の農民へ恐怖的
見せしめのために、全滅させられて丁つた。



 私は『共産主義』と云ふ言葉が、民衆の心には秘密警察や、不正不義や、圧迫
や、暴行と同意義になったのを見た。共産主義者と云ふ名は、都会では一般に、
そして農村ではどこででも、深い永続きのする、猛烈な憎しみを以て憎まれて
ゐる。それは瞞された希望と殉難とから生れた、恐ろしい程に激しい憎悪だ。



 ボルシェヴィキの此の農民『政策』は革命の死の鐘のやうに響く。クロボトキンが其の手紙の中
や又は来訪者に繰返し繰返し力説した所の、『ボルシェヴィキは、革命はどんな風にやってはいけな
いかを、世界に示した』と云ふ言葉の如何に正しかったかよ。
(アレキサンダー・ベルクマン「クロポトキンを思う」 世界文庫版大杉栄全集2所収)


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