2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(35)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(7)


 1947年12月31日、「沖縄メッセージ」からほぼ三ヵ月後の「東京裁判」でのひとこま。

ローガン弁護人
 「天皇の平和に対する御希望にして、木戸侯が何か行動をとったか。あるいは何か進言をしたという事例を、一つでもおぼえておられますか」
東条英機
 「そういう事例は、もちろんありません。私の知る限りにおいては、ありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや。」

 東条の証言に拠れば「すべての戦争は天皇の意思において遂行されたということになると同時に、もし意思に反していたのなら、ヒロヒトが開戦を拒否すれば、太平洋戦争は発生しなかつたということになる。いずれにしてもヒロヒトの開戦責任はある、ということになる。」

 キーナンはただちに天皇の側近を動かし、東条の発言を撤回させるように指示した。そして1948年1月6日、東条英機は自らの発言を撤回する。

 こうした一連の事態が動いている中で、「うらうらとかすむ春へになりぬれと山には雪ののこりて寒し」(1948年1月29日「新年御歌会始」の際のヒロヒトの歌)といった言説を平然と発話できてしまう者であればこそ、国民に対する憲法遵守の発言を、平気で裏切り、自らの保身のために、ソ連と共産主義の脅威から、確実に自分を守ってほしいとマッカーサーにすがりつくことができたのであろう。

(中略)

 ヒロヒトの保身をめぐる恐怖感に、国民全体を感染させることが、「反共」と「反・北朝鮮」感情を煽り立てることの最大のねらいであり、その気分・感情が「国体」を支える、という政治的経験が、朝鮮戦争と連動したアメリカとの講和交渉の一つの内実だったのである。

 このヒロヒトの恐怖心こそが、アメリカとの平和条約交渉の過程における日米安全保障条約をめぐる、屈辱的な従属性を生み出す、最大の要因となったのである。



1950年
 10月3日 韓国軍、38度線を突破
 10月8日 「国連軍」も北進開始
 10月25日 中国人民義勇軍が出動
 11月5日 北朝鮮軍・中国軍、平壌奪回

 こうした緊迫した状況の中で、ヒロ ヒトはダレスに「文書メッセージ」を提出し、「多くの有能で先見の明と立派な志を持った人びと」、「もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心にきわめて深い影響を及ぼすであろう多くの人びと」の公職追放解除を要請した。

 11月7日、大日本帝国の要人たち3250人が公職追放解除された。レッド・パージで「共産主義者」を追放するとともに、旧大日本帝国の政府関係者・軍人たちが続々と追放解除され、新憲法下の国家の中枢に入っていった。いわゆる「逆コース」路線も、日米合作で行われたことは明らかであろう。

 ヒロヒト個人の戦争責任の免責を、よりいっそう確実にするために、彼をとりまいていた中枢部の臣下たちが解放されたことは、国民的規模での、戦争の加害責任を忘却するうえで、大きな契機となった。もちろん、それもヒロヒトの自己保身の恐怖心からの依頼に、GHQ側が答えてのことである。



1951年1月1日
 北朝鮮軍・中国軍、再び38度線を越えて南下開始

 この年、マッカーサーは年頭の辞で、「集団安全保障」と早期講和の重要性を強調した。そして、講和条約の前提となる安全保障条約をめぐる、最終的なかけひきが、日米間で進められていった。

 しかしすでにこの段階で日本とアメリカの関係は、昭和天皇ヒロヒトの「文書メッセージ」の影響で変わってしまっていた。

 アメリカは「恩恵」として、米軍を日本に駐留させるという議論を展開することができるようになってしまったのである。重要なのは、この議論がアジアの中の日本をめぐる安全保障の現実的な状況から生まれたものではなく、ヒロヒトとその周辺が抱いた「共産主義」に対する恐怖心が生み出した幻想に基づいているということだ。その意味でフレーム・アップされた議論なのだ。



 1951年1月25日に来日したダレスは、この路線で日本側を押し切った。

 ダレスは、対日講和条約草案をはじめて公表した三月三一日のロサンゼルスの演説で、「もし日本が希望するならば、〔米軍駐留を〕同情的に考慮するだろうと公開の席上でのべた」と、ふたたび二月二日の演説をとりあげたうえで、「安全保障にたいし頼むに足る貢献をなす能力を有する国は「無賃乗車」をしてはならない」と強調した。ここに、今日にいたるまで日米関係を″規定″してきた「安全タダ乗り論」の〝起源″をみることができるのである。

 要するにこの交渉を一言でいえば、基地提供をいかに〝高く売りつけるか″という立場と軍隊の駐留についていかに〝恩を着せる″かたちにするかという立場の攻防戦であった。結果として米側は、「米国が日本に駐留したいことも真理」という日本側の「五分五分の論理」を拒否し続けることで、この攻防戦に勝利した、といえよう。
(豊下楢彦『安保条約の成立』から)



12月23日
 東条英機をはじめとする戦犯7人の絞首刑執行
12月24日
 A級戦犯容疑者岸信介ら19人を釈放


 A級戦犯容疑者の中で、ついに起訴されなかった、「開戦の詔書」の署名者、一九四一年当時の国務大臣岸信介、警察官僚で治安維持法下の言論思想弾圧の張本人安倍源基、右翼組織の大物であった児玉誉士夫、笹川良一らをはじめとするを19人をマッカーサーは釈放した。

 岸信介が、日本の再軍備に基づく、日米安保条約改定(60年安保)の際の首相であり、児玉と笹川が、田中角栄時代のロッキード事件の立役者だったことを忘れてはならないだろう。このとき釈放された面々こそが、1950年代から60年代にかけての日本の政治の反動化と、民主主義の空洞化のために暗躍しつづけ、日米談合で形成された「象徴天皇制」と、日本のアメリカへの従属体制を強化していった中心人物であったことを、私たちの記憶に焼きつけておかねばならない。

 マッカーサーによって釈放され、敗戦後に生き残った戦犯たちは、それぞれの部所において、忠実に、戦後的「国体護持」、アメリカと癒着した「象徴天皇制」体制を支えるために働いたのである。このときから、日本には「純正ナショナリスト」(そのような者がいるとして)は、原理的に存在しなくなった。どれだけ「国粋」や「愛国」を主張したとしても、その本質は、ヒロヒトがそうだったように、徹底した対米従属であり、いつでも「反共」の一致点において、アメリカと裏取り引きをする者たちなのである。

 そのことを最も象徴的に表したのが、1960年6月15日の事件であろう。



 ということで、60年反安保闘争につながりました。「反安保闘争のクライマックスに入る前に、敗戦直後から1950年の砂川闘争にさかのぼって、二つの補充をしたいと」始めたうちの一つ, 「アメリカ属国化路線を敷いた張本人」を今回で終わります。次は、もう一つのテーマ「砂川闘争」を取り上げます。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
日本の外交 日本の貿易 日本の信頼
マッカーサー A級戦犯 東条英機 で プログ検索中です。日本の歴史教科書を 少し 思い出します。
真実と事実。非国民とは なんだろうか?不敬罪?~
映画で 見る戦争。たくさんの戦争映画。
洋画 パールハーバー 奇襲攻撃。日本の官僚は わかっていたのか? 国民を苦しめた集拾がつかない~玉砕戦法?~広島 長崎 の原爆。私は 戦争を知らない子供達です。
政治研究会(名前検討中 戦争
タイムマシーンが ないと 真実がわからなくなる未来かナァ?
2013/01/02(水) 14:44 | URL | 村石太ダー&コピーマン&マイケル&ジョン&リバー #ZyadjIJ6[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1129-266cd73d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック