2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(32)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(4)


 国体維持のための最強の弾圧装置・治安維持法が廃止され、政治犯が釈放され、天皇批判公然と行われるようになった。これは国体の一角が崩れた事を意味する。この経緯におけるGHQの思惑を小森さんは次のように解読している。

 昭和天皇ヒロヒト個人の免責をはかろうとしたGHQが、ここまで「国体」の基盤を崩さざるをえなくなったのは、皮肉なことに、ヒロヒトの存在を軍部と切り離し、軍部に真珠湾攻撃をはじめとする、「開戦」をめぐるすべての責任を転嫁することでしか、ヒロヒトの免責が不可能であると判断したからだ。



 10日12日、近衛文麿が天皇ヒロヒトの退位問題を新聞記者に漏らしてしまい、天皇退位報道が流れた。さらに10月30日、GHQが全皇室資産を公表したため、ヒロヒトに対する風当りが一気に強くなっっていった。

 このような状況に抗するように、ヒロヒトとその側近は、国体のもう一つの基盤である「宗教的権威」としての天皇を一気に前面に押し出そうと画策しはじめる。この動きは、軍部の中枢と天皇を切り離すことによって天皇の軍事的役割を消去し、ヒロヒトの戦争責任を回避させるというマッカーサー(GHQ)の思惑と合致してもいた。

 退位の風聞ゃ、改革を求める国内・国外の圧力といった前述のような状況を背景として、天皇の助言者たちは、天皇の軍事的イメージを払拭することに全力を集中した。彼らは、ヒロヒトに対するマッカーサー個人の寛容さを利用して、三重県にある伊勢神宮を天皇が「非公式に」参拝する許可を求め、そして、即座に許可を与えられた。

 11月12日、天皇は東京を発ち、皇祖皇宗を祀った官幣社への三日間の巡幸の途についた。表向きには、巡幸は純粋に宗教上の目的のための単純な行事のように思われた。

 天皇は、敗戦という新たな政治的状況のなかでさえ、非公式には、神話に基づく皇国史観が生き続ける力をもっていることを再確認しようとしていたのである。それのみならず、天皇は世論を試していたのであり、彼の軍事的イメージを拭い去ろうとしていたのである。

 この巡幸は、彼が新しいスタイルの装いを披露する最初の機会であり、それは、彼のために調整されていたのである。彼はただ一度だけ新衣装を着たが、そのあとは地味な背広に替えた。しかし、それを調整したということは、内外を問わず民衆に、彼が退位するどころか、皇位にとどまろうと決意していることを印象づけた。
(ハーバート・ピックス(一橋大学・NY大教授)・岡田良之助訳『「象徴君主制」への衣更え』)



 一方GHQは、その国体維持のためのもう一つの重要装置である「宗教的権威」に対して、12月15日、「神道指令」を発表する。この指令の正式名称は「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」であり、信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を果たすことなどが盛り込まれていた。

 このような経過を見ると、この1945年末の時期、ヒロヒトとその側近たちが、かなり危機感をつのらせていただろうことは想像に難くない。

 この時期、ヒロヒトの侍従・木下道雄がその危機感を如実に示す活動をしている。かつて共産党に所属し、転向後右翼になった田中清玄をヒロヒトに会わせて、「国体護持」を実現するために全面協力するという約束をとりつけていたのである。さらに12月30日には、須知要塞という人物に会い、暴力団の安藤明と協力して、GHQを操作する計画をねっていた。

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