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《「真説・古代史」拾遺編》(23)

「倭」と「日本」(6):日本書紀の「倭」(4)


4.地名・国名としての「倭」

 日本書紀では、古事記あるいは万葉集などで「夜麻登」あるいは「山跡」などと記述されていたものを、全て「倭」「倭國」あるいは「大倭」と書替えている。そのため「地名に関しては非常に判断が困難である。」と西村さんは述懐している。この『地名・国名としての「倭」』の問題は、「古田史学の会」の中村幸雄さんが『万葉集「ヤマト」考』という論文で詳しく解明しているので、次回からはこの中村論文を読んでいきたい。

 西村論文では、『地名・国名としての「倭」』の問題に、仁徳即位前紀の「不可思議な記述」の解読を通して、アプローチしている。西村さんは、その説話の原文を掲載しているが、ここでは講談社学術文庫の訳文を掲載しよう。

「 このとき、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が、倭の屯田(みた)と屯倉(みやけ)(天皇の御料田や御倉)を支配しようとして、屯田司(みたのつかさ)の出雲臣の先祖、淤宇宿禰(おうのすくね)に語って、「この屯田(みた)はもとから山守りの司る地である。だからいま自分が治めるから、お前にその用はない」といわれた。淤宇宿禰は太子に申し上げた。太子は「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に申せ」といわれた。淤宇宿禰は大鷦鷯尊に、「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」と申し上げた。大鷦鷯尊は倭直の先祖麻呂(まろ)に問われて、「倭の屯田は、もとより山守りの地というが、これはどうか」といわれた。「私には分かりません。弟の吾子寵(あごこ)が知っております」と答えた。吾子籠は韓国に遣わされてまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤字にいわれるのに、「お前は自ら韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜兼行で行け」と。そして淡路の海人(あま)八十人を差向けて水手(かこ)とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。屯田のことを尋ねられると、「伝えきくところで は、垂仁天皇の御世に、御子の景行天皇に仰せられて、倭の屯田を定められたといいます。このときの勅旨(ちょくし)は『倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といっても、天皇の位になければ司ることはできない』といわれました。これを山守りの地というのは間違いです」と。大鷦鷯尊は、吾子寵を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は言うべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。」

 屯田は垂仁のときに定められた「天皇の御料田」であるが、その意義が仁徳にもその臣下たちにも分からなくなっており、それを知っていたのは倭直の一族の吾子籠だけだったと言っている。そんなバカなことがあるのだろうか。

 西村さんは、垂仁のときに屯田が定められた事情を、次のように推論している。
 崇神の時代までは、近畿ヤマト王権と九州王朝の間に巨大な東鯷国(銅鐸圏)が広がっていた。ところが垂仁の時、東鯷国は滅ぼされたて、九州と近畿との往来が容易になった。近畿ヤマト王権は神武以来、九州王朝の臣下を自認していた訳だから、当然九州王朝に対し貢献する義務を負う。従ってその貢献物である米を作る田を定める必要が発生した。

 従って、垂仁の言う帝(原文では「御宇天皇あめのしたしらししすめらみこと」)とは九州王朝の王、つまり倭王であり、「倭の屯田」は「チクシノミヤタ」である。



 次に西村さんは『仁徳の時代、何故「チクシノミヤタ」の意義が忘れられていたのだろうか。』と問うている。

 答えはいたって簡単である。前段で論じたように、神功・応神以来近畿天皇家は九州王朝の承認を得ていなかった。言い替えれば、服属していなかったのだ。従って、九州王朝に対する納税義務も消えたことになる。「倭の屯田」の意義が失われる所以である。  さて、こうして「倭」(ワもしくはチクシ)の地名が奈良県内部に遺存してしまった。とすれば、残り四十九件の「倭」もすなおに「ヤマト」と読めるのかどうか問題となるのである。



6.神名に付いた「倭」

崇神六年
「百姓(おおみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くもの有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までにおそりて、神祇(あまつかみくにつかみ)に請罪(にみまつ)る。是より先に、天照大神・倭大國魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭(いはいまつ)る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、・・・」

 この後、天照大神は倭の笠縫邑(かさぬいのむら)から最終的には伊勢神宮に、、倭大國魂は大和神社に祀られることになる。

 ここで西村さんは『「是より先に」とは「いつから」のことか』と問う。

 天照大神は明らかに神武が九州から連れて来た神である。とすれば、倭大國魂も同様ではなかろうか。或いは、神武から垂仁までの間にヤマト以外の土地から来たのだろうか。何故なら、倭大國魂はこの時初めて、「天皇の大殿の内」から出されるのであり、「ヤマト」原住の神とは考えられないからだ。この倭大國魂を「ヤマト」原住の大物主神と混同する向きもあるが、これは明らかに誤りである。



崇神七年八月
「大田田根子(おおたたねこ)命を以て、大物主大神を祭(いやま)ふ主(かむぬし)とし、亦、市磯長尾市(いちしのながをち)を以て、倭大國魂神を祭ふ主とせば、必ず天下(あめのした)太平(たひら)ぎなむ。」

 (倭大國魂と大物主神は)まったく別の神格だ。そして倭大國魂の神主に任命された市磯長尾市とは、またしてもあの「倭直」の一族なのである。

 となれば、この「倭大國魂」は何処から神武たちが連れて来た神だろうか。並祭していたのを、以後別けて祀るのであるから、本来天照大神とは別の土地の神だと思われる。ヤマトでないならば、吉備・安芸・豊或いは筑紫の神であろうか。



 次に、大和神社の本殿の傍らに祀られている神を取り上げている。

 社伝には、竜神にして倭大國魂の使神、とされている。この神は非常に古い神らしく、神代紀の神生みの段一書第七に、軻遇突智(かぐつち)の屍より生まれたとされている。軻遇突智が何処で殺されたかは定かではないが、この後イザナギは泉國へイザナミを訪ね、更に「故、橘の小門に還向(かへ)りたまひて」とあるので、おそらくこの神の生地は筑紫であろう。ではこの神を使いとしている倭大國魂も筑紫の神と考えることが自然だ。

 つまり、「天国」=天照大神、「倭(筑紫)国」=倭大國魂なのである。そしてこの神の呼び名は、大和神社には申し訳無いながら「チクシオオクニタマ」なのである。



 西村さんは最後に、次のように述べて、この論文を閉じている。
「倭」の音は「wa」である。「倭」を「ヤマト」と読むには、「ヤマト」の国に「倭」の中心が存在する必要がある。では、日本書紀編纂当時既に「倭」=「ヤマト」は人口に膾炙していたのだろうか。だが、もしそうであれば、歌謡はともかく、本文注の「ワ」を表す文字は「和」を使用すべきではないだろうか。

 ともかく、日本書紀に指示されていない以上、本来の読み方である「ワ」以外の読み方は、論証無しにはすべきではない。だから、「倭」を「ヤマト」と読まないことは、実は当たり前なのである。

 それでも、「倭」を全て「ヤマト」と読みたい人があるのなら、次の一文の読み方を示して戴きたい。

大化二年二月詔勅
「明神御宇日本倭根子天皇・・・」

 岩波の日本古典文学大系ではこの3文字を「ヤマト」としているが、まさしく糞飯物といえよう。

 「倭」を日本書紀の規定しない「ヤマト」と読みたい方にこそ、その論証責任があるのである。



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