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《「真説・古代史」拾遺編》(22)

「倭」と「日本」(5):日本書紀の「倭」(3)


3.人名に使われる「倭」

 まず西村さんは、古事記と日本書紀の人名対比表を掲示している。

〔番号 紀名 日本書紀(古事記)
        (備考)〕

     という形式で転載する。

1 孝霊 倭國香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)
2 孝霊 倭迹迹日百襲姫(夜麻登登母母曾毘売)
      (孝霊と1の娘)
3 孝霊 倭迹迹稚屋姫(倭飛羽矢若屋比売)
      (孝霊と1の娘)
4 孝元 倭迹迹姫(2と同一視)
5 崇神 千千衝倭姫(千千都久和比売)
      (崇神と御間城姫の娘)
6 崇神 倭彦(倭日子)
      (崇神と御間城姫の子)
7 崇神 倭迹速神浅茅原目妙姫(2と同一か?)
8 垂仁 倭姫(倭比売)
      (垂仁の娘)
9 景行 稚倭根子(倭根子)
      (景行の子)
10 継体 倭彦
      (仲哀五世孫)
11 継体 倭媛(倭比売)
      (三尾君堅威の娘)
12 天智 倭姫
      (天智皇后・古人の娘)


 この表から読み取れること。

① 時代がひどく偏っている。
 「倭」を「ヤマト」と読み奈良県を意味するのであれば、もっと各時代平均して出現する筈であろう。

②特に、応神~武烈まで全くない。
 この応神から武烈までの大王の和風諡号には「ワケ」以外には、「ヒコ・ミミ・タマ」といった九州王朝の官職名とおぼしき称号が全くない。さらに日本書紀では活発な対外活動をしているこれらの大王たちが、古事記では少なくとも近畿地方から外へ出た形跡がない。

 つまり、この時期の近畿王朝は九州王朝と政治的な交渉をもっていなかったと推察出来るのだ。その理由は唯一つ。神功・応神の反乱と纂奪である。この不法な纂奪者とその子孫たちを九州王朝は承認しなかったのである。だからその時代、近畿には「倭」を冠した人物が存在しないのだ。

 では、九州王朝と交渉があれば、何故「倭」を戴いた人名が出現するのか。天皇の子供たちは様々な理由でその名を獲得する。生地の地名・扶養地の地名・扶養者の氏族名などである。上記の(表)内、何人かは九州に何らかの繋がりがあるのではあるまいか。



(神功・応神の反乱と纂奪については
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(3)
を参照してください。)


③ 古事記との対比から考えられること
 1と2は、古事記では「夜麻登」と音読で表記されているので、日本書紀での表記「倭」を「ヤマト」と読んでもよいかもしれない。ただし、西村さんはこの推定には「こう即断するにはやや問題がある。倭國香媛はまったくの別名であり、倭迹迹日百襲姫命も微妙に表現が異なるからだ。」と留保をつけている。


倭國香媛
やまとくにかひめ

意富夜麻登玖邇阿礼比売命
おほやまとくこあれのひめ


倭迹迹日百襲姫
やまとととひももそひめ

夜麻登登母母曾毘売 やまととももそびめ)

 では、古事記にも登場する他の6名は何故古事記で「夜麻登」ではないのだろうか?

 その最大の理由は元来「ヤマト」と読まなかったからではないのだろうか。特に千千衝倭姫命は「倭」を「和」と書替えてある。古事記が固有名詞を表記するルールに従えば、少なくとも千千衝倭姫命は「ヤマト」とは読んではならないのである。




千千衝倭姫命
ちちつくやまとひめ

千千都久和比売
ちちつくわひめ

④ 日本書紀だけに現れる名称

10の継体紀・倭彦について

継体即位前紀
「・・・今、足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波の國の桑田の郡に在す。」

 西村さんは「果たして仲哀の五世孫といった人物が本当に存在したのであろうか?」という問いを立てる。

(この倭彦王については
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(11)
を参照してください。以下の論考では 『ヤマト王権・王位継承闘争史』の(3)(11)で明らかにされた史実が前提となっています。)


 応神は仲哀の末子である。その応神を戴いた神功と武内宿禰は当時の近江朝に対し反逆する。そして、武内宿禰は執拗なまでに、正統な王位継承権者・忍熊王を追いつめている。神功らはその他の王位継承権者をも生かしてはおかなかっただろう。応神以外の仲哀の子孫たちは殺し尽くされたに相違ない。ここに応神以外に仲哀の血を伝える者は途絶えた。

 ましてや、仲哀五世孫など存在する筈がない。では、この仲哀五世孫とされる倭彦王とは一体何者なのか。

 武烈死後、王位継承権者のいない近畿地方は内乱に陥った。九州王朝はこの内乱に介入しようとはしなかったのであろうか。そして、筑紫から近畿に素速く、しかも安全に到着する方法の一つとして、対馬海流に乗り出雲沖を抜け丹後半島に上陸し陸路を丹波・山背と進む方法がある。

 「丹波の國の桑田の郡」に居た、とされる倭彦王はこの軍隊の指揮者ではなかったのではないだろうか。或いは、倭王つまり磐井その人であった可能性すら否定できないのである。何れにしても、「倭彦王」は少なくとも「ヤマトヒコノキミ」と読むべきではない。



12の 天智紀・倭姫について

 この倭姫は、天智の異母兄とされる古人大兄(ふるひとのおほえ)の娘であり、天智の皇后である。また、天智のの称名は「中大兄」である。この系譜は大きな問題点を孕んでいる。

 まず「中大兄」の問題

 「大兄」とは異母兄弟中最年長の男子に与えられる称号である。とすると天智の「中大兄」ってなんだ?「定説」は「天智は二番目の大兄なので中大兄」と説明している。実に苦しい解釈だ。もしそうならば、天智には固有名部分が存在しないことになる。天智は「葛城皇子」という別名もあったのだから、「葛城中大兄」と呼ぶべきだろう。しかし、日本書紀にはこの言い方はまったくない。また、天智の他には「中大兄」と呼ばれた王子がまったく存在しないことも変な事だ。

 ところで、舒明には二人の「大兄」がいたとされているわけだが、この古人大兄はに反逆罪で殺されている(孝徳元年11月)。つまり、反逆罪で殺された男の娘が皇后に成っている。これも変だ。

 さらに、天武は天智に出家届を提出する際、この倭姫王を次代の天皇に推している。これも奇怪な事だ。(いずれ「壬申の乱」を取り上げたいと思っている。この問題はそのときに詳しくふれることになるだろう。)

 後は想像するしかないのだが、形式的には九州王朝が存在しているとはいえ、この時期実力ナンバーワンだったであろう天智の皇后に最も相応しい人物は、政略的にみれば九州王朝の皇女である。つまり、薩夜麻(さちやま)の娘だ。もし、この人物が筑紫から遥々近畿に嫁いできたとすれば「倭姫王」の名が最も似つかわしい。すなわち「チクシヒメノキミ」である。



薩夜麻については
『白村江の戦(3)』
を参照してください。


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