2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(21)

「倭」と「日本」(4):日本書紀の「倭」(2)


2.姓・部の「倭」

 このケースの「倭」の初出は「神代下第九段国譲り」の「一に曰く」の中である。

「一に云はく、二の神遂に邪神(あしきかみ)及草木石(くさきいし)の類を誅(つみな)ひて、皆已に平(む)けぬ。其の不服(うべな)はぬ者は唯星の神香香背男(かかせお)のみ。故(かれ)加(また)倭文神(ひとりがみ)建葉追命(たけはつちのみこと)を遣せば服(うべな)ひぬ。倭文神、此をば斯圖梨俄未(ひとりがみ)と云ふ。」

 これについての西村さんの解説。(以下、このことわりを省く)

 倭文神はシトリガミと読み、シトリはシツオリつまり日本古来の織り文様のことであるらしい。神武東侵以前なので、奈良県は登場すべくもない。つまり、この時の「倭」は中国史書に表われる「倭」と同様の意味を持ち、もし、和訓するとすれば「チクシ」以外には有り得ない。



 西村さんはこれと同種の命名と思われるものを取り出していく。

綏靖即位前紀十一月
「乃ち弓部稚彦(ゆげのわかひこ)をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまえあ)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ・・・」

允恭四二年十一月(西村さんは「允恭七年十二月」としているが誤記だろう。)
「時に倭飼部(やまとのうまかいべ)、新羅人に従いて…」

 この天津真浦は時代が離れている為同一人物とは考えられないが、古事記の天の石屋戸の段に天津麻羅として鍛冶屋の役で登場するので天孫降臨以前からの部名と考えられ、即ち「ヤマト」とは読み得ないのである。

 (允恭紀の例)も同様であろう。何故「ヤマト」人が新羅人に従って入国しなければならないのだろうか?

 こうなると、その他の「倭」を冠する姓・部は全て再考すべきであろう。



雄略九年五月
「倭子連(やまとごのむらじ)〈(注)連、未だ何の姓(うぢ)の人なるかを詳にせず。〉」

顕宗元年二月
「(注)置目(おきめ)は老嫗(おみな)の名なり。近江國の狭狭城山君(ささきのやまのきみ)の祖(おや)、倭帒宿禰(やまとふくろのすくね)の妹(いろも)、名を置目と曰う。見下の文(くだりに)見ゆ。」
(「下の文」では、倭帒宿禰は、狭狭城山君韓帒宿禰(からふくろのすくね)と対にして語られている。)

武烈七年四月
「百済の王(こきし)、斯我君(しがきし)…遂に子有りて、法師君(ほふしきし)と曰ふ。是れ倭君(やまとのきみ)の先(おや)なり。」
<    何れも「ヤマト」と読むにはいかがわしい、として、次に、西村さんは「倭」を冠した残りの姓(倭直~大倭連)の系譜の検討をしている。

 まず神武紀。
 速吸之門(はやすいなと)でイワレヒコの軍団の水先案内になった珍彦(うずひこ)に椎根津彦(しひねつひこ)という名を授けた段で
「即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖(はじめのおやなり)なり。」(神武即位前紀甲寅年十月)
と言っている。
 さらに「倭国(やまとのくに)の磯城邑(しきのむら)」を侵略した時(神武即位前紀戊午年九月)の恩賞で、
「珍彦(椎根津彦の別名)を以て倭國造と」(神武二年二月)している。

 なんと神武の気前の良いことか。神武は自分が新たに獲得した領土の全てを珍彦(椎根津彦)に預けたと云うのである。それとも、神武が征服した土地の一部に小字の「倭」があったというのであろうか?だが、「倭」は本来九州を指す用語である。神武がはるばる九州から持参したというのであれば、神武以前の小字「倭」には首肯しえない。

 これによれば、今まさに神武に攻められる土地が「倭国」と呼ばれている。奈良県には既に「倭国」があったのであろうか?



 ここでも「倭」を「やまと」と読む「定説」に繕いがたいほころびが出ている。

 武烈四年
「(「百済の武寧王」の注)百済新撰に云はく…琨攴(こんき)、倭(やまと)に向(まう)づ、時に筑紫嶋(つくしのしま)に至りて…」

 継体七年六月
「(注) 百済本紀に云はく、委(やまと)の意斯移麻岐彌(おしやまきみ)といふ。」

欽明一五年十二月
「百済、下部杆率"斯干奴(かほうかんそちもんしかんぬ)を遣(まだ)して表上(ふみたてまつ)りて曰さく「百済の王臣明(こきしやつかれめい)及び安羅に在る諸の倭(やまと)の臣等(まえつきみたち)…」

推古十六年八月
「時に使主裴世清(おみはいせいせい)親(みずか)ら書を持ちて…其の書に曰く「皇帝(きみ)、倭皇(やまとのすめらみこと)を問ふ。…」

(孝徳紀)白雉五年二月
「(注)伊吉博得(いきのはかとこ)が言はく、…別に倭種韓智興(やまとのうぢかんちこう)…」

斉明五年七月
「(注)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書に曰はく、…倭(やまと)の客(まらうど)最も勝れたり…「汝等(いましたち)倭の客…」

 これらの例ではすべて「倭」を「やまと」と読んでいるが、神功三九年の(注)では「わ」と読んでいる。

「魏志に云はく、…倭(わ)の女王、…」

 神功三九年から推古十六年八月までは全て外国史料であるので「倭」を「ワ」と読むのは明白である。伊吉連博徳は日本側の人である為、判断が付きにくいように思われるが、斉明五年七月注の「汝等倭の客…」は唐帝の勅旨であるので「ワ」と読むしかないのである。



 魏志の場合だけ「わ」で他の外国史料では「やまと」と読むというのでは、まったく論理的整合性に欠けると言わなければならない。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1121-8d50116c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック