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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(4)

「独立左翼」とはなにか


 「昭和維新」を戦闘的に担った人たちの思想的立場を総称して「新左翼」と呼んでいる。つまり、国際的にはソ連共産党や中国共産党、国内的には日本共産党や社会党などの既成左翼のくびきを打破して、思想的にも闘争方法においても全く新しい情況を創成していった労働者・学生・市民を、「旧」左翼(既成左翼)に対比して「新」左翼と呼んでいる。

 教科書Aで蔵田さんは表題には「新左翼」を用いているが、本文中では「革命的左翼」という言葉を用いている。まだ教科書Aを読み始めたばかりなのだが、「新左翼」=「革命的左翼」と考えてよいだろう。

 これらとは別に「独立左翼」という言葉がある。これは「新左翼」や「革命的左翼」とはいささかニュアンスが違うようだ。それらの中の最も良質な部分を指しているように思われる。

 吉本隆明さんは60年安保闘争を「初めての独立左翼の運動」だと言っている。教科書B「独立左翼論」は「独立左翼」どのように解説しているのか、その部分をピックアップしてみる。

 その前に、教科書Bの著者・三上治さんの履歴を簡単に紹介しておこう。
1941年 三重県生まれ
1960年 中央大学の法学部政治学科に入学。安保闘争に参加し、その終盤まで全学連主流派活動家として過ごす。
1962年 再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。
1966年 第二次ブンド結成に加わる。全共闘運動やベトナム反戦闘争に参加。
1969年 ブンド内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立。
1969年 4月28日の沖縄闘争で指名手配され、潜行しつつ活動していたが、9月に逮捕。
1970年 一旦保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に収監。この間、共産主義者同盟叛旗派をつくり、最高指導者となる。
1975年 叛旗派を辞め、政治的実践活動から退き、執筆活動に転じる。

 さて、まず教科書Bが引用している吉本隆明さんの文章(「シリーズ20世紀の記憶」所収「日本資本主義に逆らう独立左翼」)を孫引きする。

 11月27日(1959年)に全学連主流派が国会構内に入った行動などは、僕は見ていて『すごいことをするな』とずいぶん触発されました。初めてだ、こういうデモのやり方と闘争の仕方は、と思いました。そういうのに初めて出会ったということで、それで、それで「これはいいやり方だ』と思って見ていたら一度ならず何度もやるんです。塀を乗り越え乗り越えみたいに、そうとう逮捕されたりして打撃を受けてもまだやるというように続けていました。それがきっと安保闘争を全体的に盛り上げる原動力になったんだと思いますが、僕は強い刺激を受けました。彼らは無鉄砲で乱暴にみえるけれどものすごく自由というか、日本の公認左翼には絶対にない自由さと奔放さがあったんです。それでとても珍しく、『ああ、こういうものもあるんだ』と思いました。『いいものを見たな』という感じがあったんです。

 それに日本の左翼が初めて、自分たちの考えで行動し、社会秩序の不当なところに攻撃をかけていった意味はなかなかなくならないだろう、と思っています。ある政治運動を自分たちの組織が壊滅してもやるみたいにやつたこともそういう行動様式も、それがいま形としてあるかないかじゃなくて、それは非常にあたらしい何かをもたらして、それでもやっぱり消えないのだと思っています。当時、ソ連にも中国にもアメリヵにも反対という独立左翼的な主張はバカにされましたけど、しかし、歴史の動きをみればだんだんそうなっているでしょう。これからどう変わるかわかりませんけど、やはり意味はあったと思います。考え方としてはちゃんとあのときに出たということです。



 この学生たちによる初めての「国会突入」に対して、「神聖な国会を汚すものであり、民主主義を冒涜する行為だ」という非難の声が自民党やマスコミから浴びせられた。一緒に構内に入った共産党や社会党は世論の批判を恐れて、反省し詫びを入れる姿勢をとるようになっていたが、全学連だけは袋だたきに合い、孤立しながら頑張っていた。この学生たちを評価し、擁護した知識人は吉本さんだけではなかっただろうか。

 この学生たちの行動が新しかったのは、その過激さによってだけではない。闘争の主体についてのとらえ方が既成左翼のあり方を優に凌駕していた。三上さんはその点の事を次のように分析している。

 伝統的左翼は党(前衛党)が革命の主体であるという理念を基礎にしている。前衛党なくして革命はない。だから、大衆運動も主体は前衛党であり、それは党のための運動である。党勢を拡大し、選挙に勝つとか、武装蜂起に備えるとか幅はあるが、党が主体である。

 伝統的な左翼の観点では大衆運動の主体は党(前衛党)であり、従って大衆運動は党の指導に従うものである。これは安保闘争において現れた、日本共産党や社会党や総評の在り方であった。彼らにとっては大衆も運動も党勢の拡大に利用するものとして存在している。かれらの観念の中には党(前衛党)の拡大が革命への接近であり、あくまでも革命の主体は党であるというということがある。

 これに対してブンドには大衆運動を党勢の拡大に利用するという観点はなかった。本当はそれが隠された目的だったのかも知れないが、共産党などと対抗上、主体は大衆であるという様式をとった。結果としてそれを実現したというべきなのかもじれない。それは行動として政治意志を表現する諸個人が運動の主体であり、その集合としての大衆的運動が展開された。そういう様式を生み出したのである。

 ブンドは伝統的な前衛党として、つまり主体として大衆運動を指導したのでなく、ブンドは必要な政治的機能を果たしたに過ぎなかった。日本の政治運動の中で、前衛党が主体ではなく、大衆が主体として立ち現れてくるという運動を初めて実現したのである。そこにブンドの意味はあった。これはブンドが意識的に実現したというよりは、無意識のうちに実現したものである。

 なるほど、ブンドも日本共産党などのような組織形式をとり、政治的役割を演じようとした。だが、プンドは大衆主体の運動に依拠せざるをえなかった。そして、そのことにおいて新しい大衆運動の様式を生み出したのである。1960年の6月15日はその実現であり、そこに僕らの希望はあった。

 僕はこれをブンドが生み出した独立左翼の大衆運動というのだが、それは伝統左翼とちがって運動の主体が大衆にあるということである。



 1960年6月15日に実現した「大衆主体の」闘争に至るまでには、当然長く苦しい理論闘争と運動形態の模索があったにちがいない。この稿は、60年安保闘争を詳細に振り返ることを第一の目的としているが、次回からしばらく、60年安保闘争にいたるまでの戦後全学連の歴史を追ってみることにする。

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