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自由『続・大日本帝国の痼疾』(97)

自由民権運動(51)―自由民権百年


 自由民権運動に関連した事柄で、詳しく学習したいと思っていることがいくつかある。その一つは明治政府の「世界史的な過誤」とも言うべきアジアに対する外交問題である。それは天皇の神秘化・民権の圧殺とならんで、まさに『大日本帝国の痼疾』を形成している病巣の一つである。この問題は、思想的視点からは、「国権」思想と「民権」思想との相克の問題として捉えられよう。

 これは大変大きな問題である。稿を改めて取り上げようと思っている。ここでは教科書A(色川大吉著『自由民権』)を用いて、その問題点のあらましを予習しておくにとどめたい。

 このシリーズ(自由民権運動)の第一回「なぜいま自由民権か」で、教科書Aの最終章の一部を引用した。その最終章を読んでいこう。

 色川さんは、「自由民権百年」のカンパニアの一環として、『自由民権』を著述している。何時を「自由民権百年」としているのだろうか。

 「日本人民が専制権力の容赦のない弾圧に抗して、自らの手で民主的な憲法草案を起草し」、全国各地に民権結社を設立し、「日本の歴史上はじめて革命的な全国政党を結成した画期的な年」1881年(明治14)から数えて百年、1981年に「民権百年」のカンパニアが始められた。

 1981年11月に予定した自由民権百年を記念する全国的な大集会を期して、北海道から沖縄まで日本列島各地に実行委員会が結成された。それを基盤に、1980年11月、全国集会実行委員会は歴史的アピールを採択した。

 自由民権運動は、すべての人が、権力も犯すことのできない人権をもっていることを主張した。そして、人権を確保する保障として、憲法を制定し、国会を開設し、官僚専制政治を打破することを要求した。この人権と民主主義の理想のために、当時の青年たちは、都市といわず、農山漁村といわず、何百という学習会や討論会を組織し、地方政社を結成した。

(中略)

 私たちが1981年という時点で、あえて自由民権百年の全国集会を開こうとするのは、人権と民主主義のための日本人民のたたかいの足跡(そくせき)を明らかにすることが、現代にとって大きな意義をもつと考えるからである。

(中略)

 百年前の民権と自由のたたかいに命をかけた日本人民の情熱と悲願を現代によみがえらせることにこそ、この記念集会の真の意味があるものと考える。



 このとき、色川さんは自由民権百年のカンパニアの意義を次のように書きとめている。

 私はこの「自由民権百年」のカンパニアは、少なくとも1980年代の前半五年間はつづけるべきだと考える。また、この「民権年間」の二つの山は、81年と84年にあると考える。

 1881年(明治14)は自由民権運動の最高潮の年であり、全国各地の草の根からの力によって専制政府を内部崩壊の危機に追いつめた年である。

 1884年(明治17)はといえば、この運動が明治14年の政変後、権力の総反攻によっておしかえされ、士族民権家や豪農指導者たちに日和見(ひよりみ)と脱落がはじまったとき、その内部から彼らを乗りこえて前進しようとした一部急進派と革命的農民が登場し、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件などの抵抗をくりひろげた年である。

 前者によって国会の開設が決定し、後者によって民衆思想の頂点が形成された。それ故に私たちは1884年を自由党解党の日をもって記念しない。むしろ秩父コミューンの成立の年として記念するのである。

 それから今年はまる百年。私たちはこの日本人民の空前のたたかいの達成点と敗北のにがい経験を貴重なものとし、これを革新的な伝統に再生して現状の変革のために役立てたいと考える。

 なぜ、それほどまでに高揚した民権の意識がたちまちのうちに国権の潮におし流されていったのか。なぜ民権家の多くがその後熱烈な国権主義者に変転していったのか。その難問についてはしばしば本文でも私見を述べたし、この事でもまとめて論じてみたいが、その問いは今日の思想状況とも相通ずる。

 戦後35年、民主主義は管理体制と化して形骸化し、平和日本の繁栄の道をひらいた新憲法は、占領軍による「押しつけ憲法」として否定されようとしている。こうした情況なるがゆえに、いっそうあらたな決意と行動が必要になったのである。



 また、自由民権百年で顕彰すべき人たちについて、次のように述べている。

 明治維新は薩摩、長州の志士の手で成された、自由民権運動は土佐士族の手で起こされたというのは偏見である。エリート中心史観が横行し、研究の遅れていた時代の見方であるということを私はこの本で詳述してきた。つまり、この二十年間の民衆史家や地方史研究者の地をはうような努力は、豊饒な人民の歴史的遺産を掘り起し、自由民権のたたかいの栄光は、そうした〝無名の人民″にこそ捧げられるべきものであることを証明した。今、はっきりとその名前ゃ内容を確認できる全国六百余の民権結社の熱烈な学習運動ゃ、国会開設請願運動、憲法起草運動、はげしい官憲の弾圧に抗しての人民への呼びかけ行動などは、ほとんどが名を残すこともなく死んだ一部の反政府士族ゃ豪農指導者ゃ地方の民衆によってになわれたのである。

 人民による民主憲法の起草と、抵抗権を行使した秩父困民党の峰起などはこの自由民権の頂点をなす。今の一部の若者がこの歴史に強くひかれるのは、可能性にみちていたこの時代のキラキラする日本人民の魂の奔放さ、突きぬけたような自由な発想と、そこにあらわれた人間性の豊かさ、美しさに彼らが打たれるからであろう。

 それはとりも直さず、現代が彼らに理想をあたえず、風のような空しさのなかに流れている証拠である。だから、「自由民権百年」をいま私たちが記念するということは、そのキラキラするものを復権することであって、板垣退助ゃ後藤象二郎らを顕彰することでは断じてない。そんな所に迷っていれば、「むかし晋作、いま栄作」といって明治維新百年祭を横どりした小ざかしい政治屋たちに、またもや逆用されるであろう。


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