FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(96)

自由民権運動(50)―飯田事件・名古屋事件


1884(明治17)年
 12月 飯田事件
     名古屋事件

飯田事件

 秩父で自由困民党が蜂起のための組織活動を活発につづけていた1884(明治17)年秋、信州飯田の愛国正理(せいり)社の自由党員たちも負債民の法律相談や調停交渉にとりくみ、総理の坂田哲太郎を先頭に官憲の干渉に対する反対闘争をはげしく展開していた。

愛国正理社は元結(もとゆい)職人や貧農を組織していた。この年8月の内藤魯一(ろいち)の「飯田通信」によると社員2500余、その要求は「租税軽減・徴兵令改正・印紙税廃止・貧民救恤(きゅうじゅつ)」で秩父困民党に通じるものがあった。

 秩父に暴動起こるの報に村松愛蔵ら愛知県田原の自由党員はこの愛国正理社の柳沢平吉(へいきち)社長らと連携して、武装蜂起の方針を決定する。

「埼玉県暴動ハ干戈(かんか)ノ一機(いっき)、挙時機(きょじき)来レリ」

 彼らの戦略は名古屋鎮台を乗っとり、監獄を破壊して兵士・囚人を味方にし軍団を強化しながら甲府貧民党と合流し、八王子に出て全国の同志とともに東京に進攻しようという計画であった。実際に名古屋鎮台の中に同志を獲得していた。

 彼らはまたかねてから檄文五万部を印刷して都会各地に撒布する計画をもっていたが、資金の調達ができずに行なわれなかった。

つまり事は少数精鋭で起すが、その趣旨は大衆に訴えて、挙兵の目的「自由革命」を実現する構想だけは持っていた。だが、秩父のような人民の中に深く入っての組織工作が欠けていたと思われる。

 色川さんは日比野元彦氏の研究(『東海近代史研究』創刊号)を引いて補強している。

「愛国正理社員に対して柳沢の積極的な指導性が発揮され、それをどこまでも遂行していたならば、あるいは又、茨城暴徒のことを病床で聞き『慷慨シ自ラ其髪ヲ握り衣服ヲ裂ク等殆(ほと)ンド狂態ニ近キ有様』であった愛国正理社総理坂田哲太郎(明治17年10月19日死去)がなおも健在でいたならば、飯田事件の局面は大きく変わっていたであろう。」

 しかし、11月13日、秩父の情勢を見て計画は中止された。そして12月、密告によって村松らが逮捕され、未発の内乱陰謀事件として終った。

名古屋事件

 ついで、飯田事件との関係も疑われて、名古屋の党員や土佐の民権家奥宮健之(けんし)ら30余名が逮捕されるという名古屋事件が起こった。

 名古屋事件について、色川さんは次のように解説している。

 これらに共通する特色は、資金獲得とスパイ防止策から同志に強盗行為をくり返させ、組織から逃げられないようにしていたということで、大島渚(なぎさ)らの名古屋事件のごときは、殺人2件をふくめて強盗・未遂51件、とくに大島渚27回、鈴木松五郎35回、富田勘兵衛(とみた かんべえ)48回(いずれも死刑)、と凄(すさ)まじい。

 長谷川昇氏はこの事件を精査した結果、名古屋事件は農民の概念では捉(とら)えられない、都市細(さい)民(みん)層の激化であるとして、そこには少数の民権家(自由党知識人)が参加しているが、主体は都市下層社会に吹きよせられた貧窮士族、博徒、職人、半プロ層であることを立証された。

「出自においては貧農、族称においては草莽隊士族、実質は都市細民」たる彼らが、本格的な資本主義原始蓄積期の社会と国家から三重に疎外されて、その鬱積した不満のエネルギーを爆発させたものであり、数十回の強盗行為は他の激化事件のそれと違って、彼ら都市窮民のアナーキーな表現形式であるというのである。自由民権運動はこうした都市の最下層民衆の反抗の膨大なエネルギーを組織できなかった。そして、その歴史的課題は次代の労働運動や社会主義運動にひきつがれてゆく。



 続いて1886(明治19)年6月、全国的蜂起のための大臣暗殺をはかったということで、100余名の急進的な民権家が捕えられた。静岡事件と呼ばれている。これをもって、いわゆる激化諸事件は終焉した。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1076-d9ae8805
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック