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『続・大日本帝国の痼疾』(95)

自由民権運動(49)―秩父事件(2)


 困民党軍参謀長をつとめた菊池貫平の出獄直後の回想談が『信濃毎日新聞』(1905年3月 記者佐藤桜哉(おうさい)の筆録)に掲載されていた。それが最近発見されたという。その長文の記事には「大宮郷に侵入する農民軍の急流のような勢いが目に見えるように活写されている」という。以下はその記事によるものと思われる。

11月2日
 大宮郷に侵入した農民軍が郡役所を占領してから、変報を聞いて馳せ参ずるものが洪水のように水かさを増し、三千からたちまち五千となり、七千となり、わずか一日にして一万を越す数に達した。

 この未曾有の高揚の中で困民党軍の最高幹部会議が開かれた。そこでの議論は、いったん山険(けん)に退いて、信州、甲州、越後(えちご)に「幾万の同勢」をつのり、一時、全国を騒乱の巷(ちまた)とするならば新政も成ろう、との慎重論に対して、いや速かに「人民の幸福のために治政(ちせい)を布(し)くべく‥…これが利益を殺(そ)ぐ所の沿道の諸官庁を破壊しつゝ、進んで帝都に乱入する」との積極論が出て、軍議はこれに決したという。

 色川さんは言う。

 三千人の大群衆だけでも目をみはるような動員の成功であったのに、それが一万に達したとき、彼ら指導者たちがその前途にふくれ上った人民軍数万の激流のような進軍を幻想したとしても責めることはできまい。



 さて、困民党軍は各谷間(たにあい)にゲリラ隊を出して、戸長(こちょう)役場や悪質高利貸を襲撃し、銃器を徴発し、借金台帳や証文をことごとく焼きはらった。この勢いに内務卿山県有朋らは深刻な衝撃をうけ、急ぎ東京鎮台兵を応援に派遣し、三方から農民軍を本格的に包囲したのである。

11月4日夜
 埼玉県児玉町金屋に突出した大野苗吉ら四、五百名の農民部隊と、東京鎮台第三大隊第三中隊は白兵戦をまじえての激戦を展開した。この戦闘での困民党軍の抵抗の凄まじさは、新発見の文書によってますます明らかとなり、死傷者数もこれまでの数倍の数にふえている。官側の報告書などをそのまま信用することはできないとし、「天朝様(てんちょうさま)ニ敵対スルカラ加勢(かせい)シロ」で有名な副大隊長大野苗吉はこの戦闘で戦死したものと、色川さんは推測している。

 同夜、粥仁田峠(かいにだとうげ)でも落合寅市のひきいる部隊が木砲(もくほう)を使って鎮台兵とはげしい銃撃戦を行なっている。

 ところが、田代栄助や井上伝蔵(でんぞう)らの困民党軍の本陣が、この日、決戦をまえにとつぜん解体し、逃避行(とうひこう)に移ってしまった。そのため全軍の潰走(かいそう)がはじまる。この原因を、『信濃毎日』の記事は次のように説明している。

 全軍の士気が沮喪(そそう)した原因は、敵に三方を包囲されたためでも、勇者新井周三郎が重傷を負って倒れたためでもない。「総理田代栄助の変心(ヘんしん)して姿を隠せること、即ち是(すなわこ)れ」である。大阪事件においては渡韓(とかん)実行隊長磯山清兵衛(いそやませいべえ)の変心が致命的になったが、「秩父暴動事件にありては、栄助は最も似(に)たる磯山たりし也(なり)」

 それにくわえて会計長井上伝蔵が逃亡する。これを聞いて、群衆は「忽(たちま)ち噪(さわ)ぎて四分五裂、殆(ほとん)ど潰乱(かいらん)せむとす」

 この突然の農民軍崩壊について、色川さんのコメントは、やはり暖かい。

 私はこの筆誅(ひつちゅう)に対して栄助や伝蔵に同情する。彼らは大井憲太郎を信じていたが、三方を敵にかこまれ、「関東一斉蜂起」のロマンが幻想として跡かたなく消え失せたとき、これ以上「無益の戦い」を続ける意志を失ったのであろう。



 本陣解体後、菊池貫平が困民党軍を再編する。これは田代の軍の単なる残党ではなく、上武信(じょうぶしん)の決死隊によって改めて組織し直された第二次困民党軍とよぶにふさわしいものだった。菊池はこれをひきいて上州の神流(かんな)川に出て、各地の困民党を集めながら、紅葉(もみじ)も終りの十石(じっこく)峠をこえて信州に転戦していった。島崎嘉四郎(かしろう)や「会津ノ先生」こと稲野文次郎の姿もこの中にあった。

11月9日
 数百名の困民党軍本隊が千曲川沿いの東馬流(まながし)に野営中、鎮台兵に急襲され、甲州めざして南下したが、途中八ヶ岳山麓の村で壊滅した。

 裁判の結果

死刑
 田代総理以下、加藤織平(おりヘい)、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作
 行方不明の井上伝蔵と菊池貫平も欠席裁判で死刑の判決

 その他重罪三百余人、軽罪及び罰金刑四千余人におよんだ大蜂起だった。

 さて最後に、秩父事件についての色川さんの歴史的評価(秩父事件を「伝統的な農民一揆の最後にして最高の形態」と見るべきか、それとも「自由民権運動の最後にして最高の形態」と見るべきか、)をそのまま引用しておこう。

 この論争に最近、興味深い一書が投じられた。森山軍治郎(ぐんじろう)氏の『民衆蜂起と祭り』であり、これは前者の主張を民衆文化論によって補強し展開している。これに対して間接的な反批判ともいうべき重大な示唆が井上幸治氏によって与えられた。それは飯田・三山(さんやま)村小隊長犬木寿作(いぬきじゅさく)が寺尾(てらお)山中に埋めた田代総理から預かった重要書類の意義を、井上氏が再発見して提起されたものである。

 そこには一国全体を見渡す軍備計画(一国一名の総監督、副監督一名、隊長、副隊長、少佐、聯(れん)長など)や、中央から地方に及ぶ行政組織(一国一名の地方総部、郡長、村長、警視官など)の構想が明記されていた。

 この軍制は、大隊に相当する二百名程度の単位と、小隊に相当する五十名程度の単位の下に旧陸軍の分隊にあたる十名単位をおくという組織になっている。この計画では幾つの大隊をおくのかは記されていないが、甲大隊長の新井周三郎は後に検事補の

〝汝(なんじ)は何のためにこんな暴挙をしたか″

との尋問に対して、

「大総督(そうとく)ニデモナル積(つも)リナリシナリ」

と一笑して答え、

「大総督トハ如何(いかに)」

とたたみこまれて、

「日本陸軍ノ大総督ヲ云フナリ」

と言い放っている。

 私はこの点に注目して構想者を新井周三郎だと推定している。もし、そうだとすると、この一国一名の総監督は「日本陸軍ノ大総督」を意味することになり、彼らが11月2日の大宮郷の高揚の中で、権力奪取後の政体構想と軍事構想を、ロマンの形であれ、語りあっていたことを裏書きする史料となるのである。

 一郡を完全に自分たちの手で治め、コミューンたらしめたという異常な空前の体験からくる興奮と解放感が、民衆にこうした壮大な構想を可能にさせたのであろう。これはまさに井上幸治氏のいわれる通り、「レアリストの田代や井上の想像を絶する文書である」。

 困民党軍の意識の高さは、サブ・リーダーとしての耕地オルグやそれに同調した農民たちの証言にみられるように、われわれの想像をはるかに越えたものであった。これほどまでの高度の政治性や思想性を生みだした秩父事件を、農民一揆と捉えることは歴史認識として正しくないと私は思う。



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