2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(94)

自由民権運動(48)―秩父事件(1)


1884(明治17)年11月 秩父事件

 この事件は圧政明治政府にとっては、人民が真っ向から天皇制国家に敵対した不祥事件である。従って、永い間歴史の闇に封じこめられていた。それが「大東亜戦争」敗戦後ようやく日の目を見ることとなった。とくに地元の教師や研究者、住民有志による顕彰運動の進展の中で史実の掘り起しも大きく前進した。数千人の蜂起農民の個別調査も進んでいるという。

 研究の進展にともなって、この事件の歴史的評価をめぐる論争も活発に行われてきているようだ。その論争のテーマは、秩父事件を「伝統的な農民一揆の最後にして最高の形態」と見るべきか、それとも「自由民権運動の最後にして最高の形態」と見るべきか、という点にある。いま初めてこの事件の学習をしようとしている私に、それを断ずる力量も資格もないが、ともかく秩父事件と呼ばれている大がかりな抵抗権行使事件のあわましを知った上で、色川さんの見解を聞くこととしよう。

 1884(明治17)年10月の自由党の解党によって自由民権運動は総崩れになろうとしていた。1884(明治17)年11月、自由民権運動の掉尾とも言うべき革命的蜂起が、首都東京と60キロしか離れていない埼玉県秩父郡全域において勃発した。

 『自由民権運動(42)―抵抗権行使事件を担った人たち』で触れたように、一連の農民蜂起をまねいた政治的な原因があった。政府は秩父事件を「衝撃的な突発事件」と認識していたようだが、その前兆は明らかなはずだった。松方財政による大増税とデフレ政策が深刻な不景気をもたらし、そのうえに国際的不況も重なって農民や都市細民などを破滅の淵に追いつめていた。そのために、数十件の負債に関連する騒擾事件が発生していた。その中で最大のものがこの秩父事件だった。窮民救済に無為無策なうえに、なんとも鈍感な政府だった。

 秩父事件を担った母体は秩父困民(こんみん)党と呼ばれているが、その中核をなしていたのは自由党員である。だだし、秩父地方には二種類の自由党が並行して存在していて、秩父困民党の中核となった自由党は、以前からあった正統的な自由党とは性質が異なったものだった。村上泰治など「旦那衆の志士的な」自由党に対してもう一つの自由党は、自由民権の政治理念を中・貧農の立場で読みかえて、社会的平等の要求をかかげたものだった。「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」である。自由困民党と呼ぶ研究者もいるが、参加農民の意識の中で自由党と困民党とが重なりあっていて、板垣の自由党を彼らの言葉で読み変え、変質させて人民に伝達するという離れわざをやってのけた党であった。

 秩父困民党の農民指導者トリオといわれている三人の指導者がいる。落合寅市(とらいち)・高岸(たかぎし)善吉・坂本宗作(そうさく)。1883(明治16)年12月、彼らは負債農民を代表して秩父郡役所に請願行動を起こした。そして、再三の請願運動を通じて大衆をとらえながら、一方では自由党に加盟し、大井憲太郎ら左派指導者の影響をうけ、彼らの伝統的観念である世直しや世均(よなら)しの正当性を確信するようになり、一歩一歩困民党の中核を形成していった。

 彼らが加盟した自由党には、風布(ふうぶ)村の大野福次郎(ふくじろう)や苗吉(なえきち)、西之入(にしのいり)村の新井(あらい)周三郎らも加わる。そして、この高岸、大野、新井らが、また借金問題で苦しんでいる村民たちによびかけて、数十名の入党者を獲得していった。この自由党は、よびかけに当っては減租(げんそ)や国会開設も口にしてはいたが、はじめから生活問題解決のための党であった。しだいに借金年賦(ねんぶ)返済や、高利貸打ちこわしに変わっていった。

 上州上日野(かみひの)村の新井貞吉(ていきち)は、坂本宗作と北甘楽郡国峰村の恩田卯一(おんだういち)が村を訪れて説得したときのことを証言している。自由党のやり方がうまくゆけば「高利貸ヤ銀行ヲ潰(つぶ)シ世ヲ平(たい)ラニシ人民ヲ助ケル事」になるから参加してほしいと。

 1884(明治17)年夏、彼らは規約を定め、困民党を本格的に成立させた。そして、郷党(きょうとう)に人望厚い秩父の仁侠(にんきょう)の人・田代栄助(たしろえいすけ)を首領にひきだすことに成功した。一方、群馬県多胡(たこ)郡の上・下日野村で自由困民党への加盟をさかんに村人に訴え、数十名の同志を組織していた小柏常次郎(おがしわつねじろう)ら上州自由隊や、菊池貫平(かんぺい)、井出為吉(いでためきち)ら信州北相木(きたあいき)村の民権家たちとも連絡をとって参加を求めていた。

 秩父困民党が数千人の農民を武装峰起させて国家権力を震撼(しんかん)できたのは、一年余の周到な準備による指導部の結成と、そのまわりに百数十人のサブ・リーダーを組織し得たためであった。

 10月中旬、指導部は合法的な請願運動を打ち切り、武装蜂起の準備にとりかかる。そして、正統派自由党左派の大幹部大井憲太郎らの制止をはねのけて、困民党のサブ・リーダーである現地組織者で固めた秩父自由困民党は、ついに11月1日、下(しも)吉田村椋(むく)神社で農民数千人を甲乙二個大隊、数十小隊に編成し、行動を起したのである。その役割表に名を列(つら)ねる者七十余人。銃器数百挺。その前夜、風布村ではすでに銃声がとどろき、月明のもと警官隊との戦闘がはじまっていた。

 秩父農民軍は整然たる軍事組織ときびしい規律をもち、鎮圧におもむいた警官隊や憲兵隊を撃退し、大宮郷(おおみやごう)(現秩父市)に乱入して郡役所を占拠、そこに本営を置いて秩父郡全体を支配するにいたった。

 こうして11月4日までは文字通り全権力を人民が握る〝無政(むせい)の郷〟(コミューン)を出現させたのである。

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